自己肯定と自信
rashita.iconもやもやしてまだまとまらないが、とりあえず書き出す。
倉下は、ナルシストでははないが傲慢ではないかと感じる
倉下は、自分をダメな人間であると認識しているが、かといって自分を否定はしていない(嫌いな部分はある)
倉下は、自分以外の人間をも等しく基本的にダメな人間と思っているので、特別自分がダメであるとは考えていない
人間皆ダメ、ということ
そこに「自分」も含まれている感覚
nora.icon私も途中からそういう捉え方になりました。
うまくいったことがあっても、その大部分は幸運みたいなものだと考えている
自分だけに限らず
自分の能力に絶対的な自信があるかというと、それはない。一方で、「まあ、それでもいいじゃん」という形の肯定がある。
肯定に足りうる何か(証拠や実績)があるから肯定するのではなく、ただ肯定する(あるいは、否定する材料が揃っていてなお肯定する)。
根拠抜きの肯定
デカルト的出発点
こういう認識が、多数派なのか少数派なのかはわからないが、どこかの時点で倉下の中に形成されたことは間違いない。
それは何による影響だったのだろうか。
生存者バイアスの可能性はある
あるは、ブッタ(仏教)的な感覚なのかもしれない。
しかし、人間は皆神の子、という感覚もある意味では同じなのかもしれない。
無条件で受け入れてくれる何者かの存在
キリスト教でいうキリスト
ということが気になっている。
おそらくこれは、古来からの幸福論のテーマでもあろう。
関係あるかも:
強いかどうかよりも、機能しているかどうか、という点が大切なのだろうか。
nora.icon個人の体験としては、もうすっかり絶望してお手上げになったので身の丈に合わないことを求めるということを一切やめたという経緯があります。しかしながら、幸運にも「悲惨な生活」はしていないため、絶望といっても「自分の、自分に対する絶望」というごく個人的なものであり、逆に自分の内面さえ解決すれば幸福への道は拓けるはずだという能天気さがあるのかもしれません。
nora.icon絶望によって「自分にないもの」を求めなくなったというのは、つまり「あるものでなんとかするしかない」という発想への転換で、「あるものでなんとかするしかない」の境地は大体逞しいものだとは言えるかもしれないです。