私の人生は自己への不審でできている
私は己を疑うことでしか生きていけない感じがする。
疑うということはつまり、どこまでが己の真実かを明らかにすることでもある。
「己とは違うもの」という前提によって他者を主語にすることには傲慢さを感じる。
「かつて己だったもの」「今も己であるもの」についての話をしたい。
劣等感に狂い、己にしか通じない合理性を振りかざして他者に鞭打ち、己の無価値感に苛まれて自らの死を思う――
そういう狂気を私は我が事として知っている。
狂気はいつも隣にあり、あるいは内にあり、私という存在は常に疑わしい。
自分が狂気に支配されていることを、その瞬間にはわからない。
去年の私は正常だったのか。先月の私は正常だったのか。昨日の私は正常だったのか。一時間前の私は正常だったのか。
それを絶えず己に問うている。
正常でないというのは、「社会に於いて」の話ではない。人と比べた話をしているのではない。
「この時の私は狂っていた」と自分で感じるかどうかである。
「この時の私は狂っていた」と自分で気づけないのは恐ろしい。
他人の目には狂っていることが明らかだからだ。
自分の狂いは一時的な「ステータス異常」だが、他人から見た狂いは生涯不変の「属性」である。
他人の目に映る自分は「そういう人間」なのである。
私は私を疑うことによって、今持ち合わせている程度の知性を得た。
それが多いか少ないか、質が良いのか悪いのか、私にはわからない。
どちらかといえば、貧弱で粗悪だろう。何しろ視界には自分しか映っていない。
しかし自分を疑わなければそれすらも得られなかった。
未だに自分を疑うことしかできないし、ほとんど自分を疑うことにしか興味がない。
己の真実が全て明らかになるまで、私はそうして生きるんだろう。