大森莊藏の無意味論と現象學
反實在論
ドゥンス・スコトゥスに於いて一義な槪念とは、それに就いての學的な言明に排中律が成り立つ槪念を謂ふ 反$ \lambda x.眞のx
例へば「能力」「眞意」「實體」「眞實」
素朴實在論と整合する
拔き描き
重ね描き
感覺的對象 + 感覺的性質
〈此の經驗〉が「此の私の經驗」ではない所に〈此の經驗〉と云ふ槪念の價値が有る。西田幾多郎に於ける純粹經驗から自覺の意を除いたのである。西田に於ける純粹經驗は私か他人かを選んだ時の私の經驗ではないが自覺されると云ふ意味での私の經驗である。 大森莊藏の立ち現れ一元論は私の〈此の經驗〉と全く同じものであり、それ故私は昔、大森莊藏を讀んだ時その價値を感じる事が出來なかった。しかし總ての哲學を學び巡って來ると、大森莊藏は、〈此の經驗〉しか存在しないと躊躇ひも無く謂ひ切った、哲學の文脈の中でさう謂ひ切った唯一の哲學者であった。過去は過去としてしか存在しない。普通はそれを難問と考へ解決しやうとする。大森莊藏はそれが事實だと謂ひ切る。他人は他人としてしか存在しない。普通はそれを難問と考へ解決しやうとする。少なくとも調和させやうとする。大森莊藏はそれが事實だと謂ひ切る。 私は〈此の經驗〉を捨てただらうか。今「序説第五版」(※第一章の第ニ節以後) と「眞なる事の特徵」とを讀むと、眞に關して同じ結論に還って來てゐる事が解る。眞は不可避である。眞は不可能である。道具立てが換はったのであり、像は最早像ではない。〈此の經驗〉は最早〈此の經驗〉ではなく「此の」である。「此の」は「彼の」である。此れと此れとは等しく在る。しかし此れは同一では有り得ない。同一でないからと云って同一でないとは謂へないのである。〈此の經驗〉が「經驗」である爲の隱れた主體が、隱れてはゐられない事を明かしたのである。立ち現れは主體が不可能である形態の一つである。今はそれを$ S_2と書いてゐる。$ S_2は身體の一つであり〈永遠極限〉の住む身體である。だから〈此の經驗〉は$ \cancel Sと$ S_1とを區別しやうとし且つ$ \cancel Sと$ S_1とに區別は無いと謂ひ切るのである。 現象學
指向性
一般者の自己限定
noma (ノエマ) / noesis (ノエシス)
感覺的對象の感覺的性質 : 時閒←→simulation (模倣) 感覺的對象の實在的性質 : 形相←→理論
現象學的反還元
確實性の放棄。必然性への還元
同一體制
ヒューム的
習慣、ハビトゥス
運動圖式
常識
類 : 同類體制