序説第五版
確実性
思想とは納得する為のものだ。然して洞うしても最後迄行かなければならないと云う事に成った時、思想家の問いは則ち、思想の成り立ち得る根拠は洞所か、でなければならない。詰り、納得させて呉れる筈の当の「思想」其のものを問いの掛けなければならない。思想は何か、ではなく、何が思想か、だ。然して最後迄ラディカルである為には此の問いを完遂させなければ不可能だ。則ち納得とは何か、確実性とは何か、だ。「何が確実か」ではなく「確実とは何か」、此れが最初の問いだ。
確実とは何か、此の問いの入り口は洞所だろう?
ルービッヒ・ウィトゲンシュタインは、確実性とは「制度に従う」事だと書いた。言い得て妙だ。「制度に従う」と云うフレ−ズを、「制度」「に従う」と云う風に分離する誤解を犯さない限りは、此れは洞所迄も正しい。だが「制度」の範囲が曖昧に過ぎて、イメージが確りと画定出来ず、此れでは誤解して下さいと言っている様なものだ。
エドムンド・フッサールは思考の基礎を洞所迄も問い詰めた。中期の超越論的現象学では、超越論的自我こそ確実であり、其の立場に立ち確実な記述を行う為には世界の実体性を括弧で括る必要が有る、とする。だが此の解答は既に、超越論的自我が確実だと云う独断の上に立っている点で満足出来ない。後期の生活世界の現象学では客観性への問いの中から、我々の生活している世界は既に間主観的存在であると云う所から出発しようとした。此所で漸く問いの前後を逆転する転向を行ったと見れる。 ジャック・デリダは、確実性の様態は常に既に時間−空間的にズレると云う「差延」だと書いた。相応の覚悟を以て当たらなければ此の思想は此ちらを呑み込んで仕舞う。其れに、此れでは上手く表し切れていないのではないか、詰り納得し切れないのではないかと云う疑念は付き纏う。納得しなくとも良いのなら始めから思想しなくとも良い。する限りは安心出来る所迄行かなければならない。
カール・マルクスは、確実な真理はイデオロギーに擬定されており、真理を掴む為にはイデオロギーと関りの無い「科学」に依る以外は無いとした。イデオロギーをも俯瞰する視点としての「科学」、其れは別に構わないのだが、確実性に関する思考は無いに等しい。
ルネ・デカルトは「方法的懐疑」を断行し、其の結果、「我思う故に我有り」と書いた。何故方法的懐疑を行うのか? 何が確実かを突き止める為だ。だが其の前提に、方法的懐疑を行わなければ確実な所は掴めない、確実性とは懐疑の先に有るものだと云う突き詰めが有った。然して其の上で、空無化した「我」が確かだとし、最高観念として神を措定した。
柄谷行人は、内部に籠もっていては全ては独断にしか成り得ないとし、普遍的な確実性を求めるのなら、「教える―学ぶ」「売る―買う」の立場に立って、外部に直面するしか無いと書いた。要するに想像力の問題だと言っている丈だ。あらゆる「関係」はスムーズならざるものが有る、其所を仮構して障壁など無いかの様にしてはいけない、と云うわけだ。
廣松渉は思想の核=世界の核に、共同主観性を据えた。「関係の客観性」としての閒主觀性と云う訳だ。全ては共同主観性に媒介されており、媒介場所である此れを最底辺に置くのだが、此れは思考の流れとしては自然な事だ。 「確実性とは何か?」、何を問うのが正当かと問い詰めていった時に最後に引っ掛かっているのが此の問いだ。何を持って来られれば納得せざるを得ないのか。ざるを得ない、納得し得ない要素がちりとでも残っている場合、其れは恣意的な独断だと考えて好い。転向する余地の無い所が有るとしたら、其所を突き止めてみたい。確実であるとはどう云う事か。否定し得ない事、否定し得る点が無ければ其れは全く確実だ。其れは絶対に肯定されている。「絶対に」、疑問の余地のなど無い事。詰り〈疑問提示不可能性〉、本当か? と問う事すら出来ないもの、絶対の確実性は其うでなければならない。――不可避――。 「不可避は不可避だ」と云う絶対の確実性。では、或るものを否定し又は疑問し得る条件は何だろう。 ――然し此う問う時既に最初の問いが変わっている。則ち「確実性とは何か?」と問うのではなく、「何が確実か?」に暗黙に答えた後から「確実性とは何か?」と添え物程度に書き付けている丈に成る。
確実性はデカルト型方法的懐疑の極点として、〈疑問提示不可能性〉として据えられる。此所迄が最初の問い――「確実性とは何か?」――に対して答え得る最後の回答だ。今こそ、今度こそ問いを厳密に転換するべきだ。則ち、「何が確実か?」 〈疑問提示不可能〉なものとは何だ? 其れは捉え得るのか? 否、捉え得るのなら其れに対して「其れは本当に確かか」と問い得るのではないか? 則ち、絶対の確実性を持つ〈疑問提示不可能〉なものは決して捉えられない、捉えられる事は全て疑い得る。確実なもの、其れは絶対に肯定される為には対象=与件から絶対に外される必要が有る。逆に書くと、〈此の經驗〉に於ける如何なるものをも確実だと据えて安定する事は無い。何かを据えた時に其所に有るのは、確実性ではなく只妥当性丈だ。〈此の經驗〉に於けるものを基礎とする限り、其れは言語論であろうと身体論であろうと超越論的現象学であろうとイデア論であろうと、絶対に永遠では有り得ない。何かを扱う為には、扱う以前に既に端緒をだけであろうとも捉えていなければ不可能だからだ。捉えられない、詰り認識出来ないものは扱い得ない、故に、絶対に確実なものは則ち扱い得ない。扱い得るものは形而下だろうが形而上だろうが全て不確実だ。だから詰り、〈此の經驗〉は妄想だ。或るものに就いて「其れは何か?」と問う場合其れは、「其れは洞んな位置を占める妄想か?」と問うのと同じ事だ。〈此の經驗〉と云う妄想に於いて、或る妄想がどの様な捉え方を成されるか――全ての問いは此の様に成る。 *
<p>それでも確実性を捉えようとしたら、どの様に成るのだろうか。捉えられないものを捉え<ruby><rb>よう</rb><rt>、、</rt></ruby>とするのだから、即ちそれは一種の極限概念として眺められる筈だ。詰り原点から方向ベクトルを定めて半直線を伸ばした時の、決して見えない無限遠点として捉えられる筈だ。だから確実性の探求としては、方向ベクトルを定める事と無限遠点の仮設の仕方との二つの課題がある事になる。方向は、既に定めた<疑問提示不可能性>であり、絶対に肯定されるが故に世界の平面には存在しない、即ち対象として捉えられない。全肯定であるが為に全否定でもなければならない、その永遠極限がここでの方向ベクトルだ。</p>
<p>極限としての無限遠を扱う方法には平行線と射影空閒の二通りが考えられる。</p> <p>平行線とは永久に交わらない二直線であるが、平面の幾何学に於いて平行線の公理は三通りあり、或る直線に対してその直線の外にある一定点を通りかつ一つ目の直線とは交わらない直線が、一本、或いは二本引ける、或いは一本も引けない様な幾何学が考えられる。平行線が一本である幾何学は、通常に学校で習うユークリッド幾何だ。</p>
<p>平行線が二本引ける幾何は<q:person>ロバチェフスキー</q:person>幾何と呼ばれているが、<q:person>ユークリッド</q:person>平面中の円盤を使ってモデル化する事ができる。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_1.png" alt="クラインのモデル" width="207" height="201"/>
<p>円盤Γを取り円周を無限遠と見做し、円Γの弦を直線とする。ここで弦とは円周上の或る異なる二点を結ぶ線分である。円周上でのみ交わる弦同士を平行線だと規約すると、直線UVに対して点Pを通る平行線は、U'VとUV'の二通りが引ける。<q:person>ロバチェフスキー</q:person>幾何は曲率が一定した負の値を取る曲面上で測地線(最短距離を結ぶ線)の延長を直線とした時の幾何学と同等だ。</p>
<p>下の図でUVとU'Vは平行だが、UVとSTは平行ではない。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_2.png" alt="クラインのモデル 2" width="203" height="206"/>
<p>平行でないからと言って交わらないとは限らない。寧ろ無限遠で交わらない限り平行ではない。普通に見る<q:person>ユークリッド</q:person>空間ではこうはいかない。平行線はどこまでも変わらずに交わらない。極限概念は導入できるが、最終的な無限遠そのものに就いてはいつも蚊帳の外だ。対して<q:person>ロバチェフスキー</q:person>平面に於いては、無限遠は平行線の仮想的な交点として直示的に把握できる。</p>
<p>平行線の存在しない幾何学を狭義の<q:person>リーマン</q:person>幾何学と呼ぶが、これは球面を平面、大円を直線として、対蹠点を同一とするモデルで構築できる。ここで大円とは球の直径をそのまま直径とする円であり、対蹠点とは球の中心に対して対称の位置にある球面上の点同士を言う。球面上の大円は必ず二点で交わるが、その二点は互いに対蹠点だから同一の点と見做される、詰り<q:person>リーマン</q:person>幾何学は有限の平面内で直線は全て有限の長さを持ち、二直線は必ず一点で交わる。ここでは「平行線」と云う概念は存在しないのであり、無限遠はその一片すらも姿を表さない。</p>
<p>以上纏めると、<q:person>ロバチェフスキー</q:person>幾何学では無限遠は平行線が出会う場所として意味を持ち、<q:person>ユークリッド</q:person>幾何学では永遠のもやもやに包まれており、<q:person>リーマン</q:person>幾何学でははっきり排斥されている。無限遠を扱い<ruby><rb>得る</rb><rt>、、</rt></ruby>のは<q:person>ロバチェフスキー</q:person>幾何学だけであり、この平面上では方向ベクトルさえ同じならば詰り平行ならば、始点はどこだろうが同じ終点に着く、と云う事が保障される。だがそれだけに過ぎない。終点が有り得るとしたらそれに関しては安心できるが、もう少し詳しく知りたい。</p>
*
<p>射影幾何学は無限遠を平気で扱う。射影幾何学の方法を暫く追ってみる。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_3.png" alt="平行線の平面への射影" width="342" height="219"/>
<p>射影幾何学の基本は、平面πと「目」Eを用意し、空間中の或る図形上の点全てとEを直線で結びその直線とπとの交点を求めた時、最初の図形はπ上にどの様な「影」を描くかと云う事だ。上図では平行線a,bをπへ射影している。aとbが平行だからといって、射影されたa’とb’が平行だとは限らない(遠近法と同じ。勿論平行になる時もある、平面πと直線a,bが全て平行であり且つaとbの影が重ならない時)。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_4.png" alt="点の射影" width="" height=""/>
<p>上図に於いてa<sub>1</sub>とa<sub>2</sub>はπ上の同一の点aに移されるので同じ点と見做される。</p>
<p>見て来た様に、射影幾何学で二次元平面を扱うと云うのは、<q:person>ユークリッド</q:person>幾何学に置き換えると三次元空間を扱う事に値する。だから射影平面上の点を、
<div class="code">
x<sub>i</sub>=(x<sub>1</sub>,x<sub>2</sub>,x<sub>3</sub>)(i=1,2,3)
</div>
と云う三つ組の座標で表す。但し例えば上図でa<sub>1</sub>とa<sub>2</sub>が同一点である事を表す為に、
<div class="code">
x<sub>i</sub>=kx<sub>i</sub>(i=1,2,3, k∈<b>R</b>-{0})
</div>
とする。ここに<b>R</b>とは実数の集合であり、<b>R</b>-{0}は実数から0を除いたものである。又ここではそうしても一般性を失わないので、点Eを原点(0,0,0)に置き、するとEからの射影と云うのは意味を成さないので、
<div class="code">
x<sub>i</sub>≠0(i=1,2,3)
</div>
とする。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_5.png" alt="無限遠点" width="" height=""/>
<p>πと平行でEを通る直線ℓを考えると、Eを除くℓ上の点からπへの射影は有り得るとすれば無限遠だけだ。</p>
<img src="img_ne_jyo5_kak_6.png" alt="無限遠直線" eidth="" height=""/>
<p>一般にπと平行な平面π’上の点の射影は無限遠であると規約する。体系的に有意味だし、そうしても何の矛盾も起こらないからだ。このπ’を x<sub>3</sub>=0 で表すとすると、
<div class="code">
(x<sub>1</sub>,x<sub>2</sub>,x<sub>3</sub>)(¬(x<sub>1</sub>∧x<sub>2</sub>)) 詰り x<sub>3</sub>=0
</div>
で無限遠が表される。ここに¬は論理否定notを、∧は論理積andを表す。</p>
<p></p>
<p>
<div class="code">
p<sub>i</sub>=ta<sub>i</sub>(i=1,2,3, t∈<b>R</b>, ¬∀<sub>i</sub>(a<sub>i</sub>=0))∃
</div>
と、tに依るパラメータ表示で表される。ここに∀は全称記号であり、∀<sub>i</sub>は「全てのiに於いて」を表す。</p>
</div>
(※以下未電子化)
視座論
生命論
付・文章の評価に就いての付論
文章の評価基準に就いて軽く指針丈でも示しておきたい。
私達が文章を了解する時、必ず其の文章を或る程度にか表出しながら読んでいる。私達が受け取る言葉は単に空気の振動だったりインクの染みの形だったりするが、其れらを意味の有る言葉として了解する為には其所に奥行きを感じなければならない。何故奥行きが感じられるのかと言うと、刺激を受け取る度に私達がいちいち意味生成性シニフィアンスの道を辿って無意識層から意識層へと其の刺激を表出するからだ。だから私達は在る文章を読んでいる時に其れを擬似的に書きながら進んでいると言う事が出来る。だが実際に文字を刻んでゆくのではない点で寧ろ話す事に近いと言えばいえる。話しながら読んでいって、上手く意味生成の道を繋ぐ事が出来ない部分に突き当たると、音として、然して単語づつの意味は解るのだけれども文章として何が書かれてあるのか解らないと云った事態が起きる。此の現象は、単語毎に籠められた糸に指を掛ける事は出来ても文を流れる脈を掘り当てる事が出来ないと云うイメージで描かれる。詰り、自分が話す身体と文章が書かれて来た身体とが同致出来ずに擦れ違ってしまうのだ。此所で其の文章が洞んな風に読み得るのかと云う方向へ進むと、大分いかれた書評が沢山出来上がる事に成る。部分丈取って適当な意味を付け加えていくと、洞うしても恣意に成らざるを得ないからだ。解決としては簡単な方法が有る。要するに同致させれば好いのだから、書く様に読めば良いのだ。此の文章を書く為には洞んな姿勢を持っていなければならないのか、と云う風に読んでいかない限り普遍性のある批評は成し得ない。だから文章を批評すると云うのは、作者の意識或いは無意識での構えや其所で織り成されてゆくイメージを批評する事に他ならない。だが、洞の様にしたら其う出来るのかが問題だ。 *
此所に一人の人がいる。此の者が或る時言葉の大海の中で文章を書こうと思い立ったのならば、其れは其の者の“何か”を表現したいと云う欲動の為だ。其の者は其の“何か”のイメージに沿って平らな言語世界から言葉を選び出し、言葉を連ねて文章を組んでゆく。此の時に其の者が頼るのは只時代の水準線と個性の構造の二つ丈だ。人は皆時代の無意識の交感の中で生活しているのだし、全ての行為は時代と個性とが拮抗した所でのみ出てくるからだ。時代の文章世界と其の者の幻想性とが噛み合わなくなって、何事かを書かねばならぬと云う程になった時、初めて書記行為が始まる。作者が確かに時代の水準線の総体を掴み得ているか、又出てきた書記行為の視座が時代と確かに拮抗し得ているかが重要な要素となる。文章が個性に洞れ丈の重みを与えているかでも同じ事だ。
別の考え方も有り得る。時代の無意識にたゆたっている個の無意識が、ふとした拍子に時代のざわめきから言葉を拾い上げてくると云う風に。此の場合時代の水準が其の任作品に反映される事に成る。此うした作品の評価ではざわめく意味を洞所迄高度に抽出し得ているかが基軸になる。
作品と云うのは大きく分けて上の二つ、個性を基底とするか、其れとも時代の水準を基底とするかの二つに分類される。此う云う言い方が気に入らなければ、個体の幻想性からの度合いと、時代の水脈からの度合いとが絡み合って一つの作品が出来るのだと言っても良い。此の絡み合いが作品の質を決める。然して絡み合いの表面で様々な構造の文章が織り成される。
*
私達は此所で作品は徹底していればいる程良いと言い切って仕舞いたいモチーフに突き当たっている。則ち洞んな形であれかっきりと結晶している文章が良いのだと云う風に。
或る文章を読んで此れは面白いなと思ったり、別の作品を読んで全く面白くないと思ったり若しくは違和感を感じたりする。此の根拠は洞所から来るのだろう。
例えば私達は或る文章を読んでいて、あっ、此れは面白い事を言っているな、と云う場面に出会う。此の時私達は、其の文章の内容に就いて、此れは的を射ているぞとか、此れは思いつかなかったぞとかの判断を行っている。詰り表出された文章の舳先の方向に対する得難さを面白いと感じている事に成る。
或いは、一体洞うやったら此んな文章が書けるのかなと云う、もっと内包的な構造に就いての面白さを感じる事も有る。この時私達は、構造とか形式とか言われる、表出を成り立たせる基盤に関して此れは得難いと思っている事に成る。
面白さと云うのは此れら内容と形式に関する得難さを感じた時の感情だと見做せる。と云う事は、作品を正確に読めて(書けて)いると云う前提が有るならば、後の評価は評者に依って蓋然的なものになる。然し、評者も又或る時代の或る場所で生活している者だと云う観点からすれば別の解答も有り得る。則ち、大衆の内容や形式に対する水準線を踏まえた上で、其所から洞れ丈離陸できるかを評価の基準とすると云う風に。或いは寧ろ、実際の水準線とはズレた位置に有る望みの水準線に洞所迄肉薄出来るかと言い換えても良い。とすれば、評者は作品を正確に読みこなす丈でなく、大衆の設定する水準線を意識的に或いは無意識的にでも構わないが、正確に把握しなければ作品を評価する事は出来ない。だから作品を価値付けようとする者は常に二重の批評を強いられる事に成る。書く側の批評と読む(話す)側の批評だ。或いは寧ろ、あらゆる批評は多かれ少なかれ、此の二つの間を共鳴しながら織り成される。読むとは作者としての立場と読者としての立場の矛盾を橋渡しする行為だと言えばいえる。其れを洞所迄意識化出来るかが批評家のやる仕事だ。
正統性
後書
参考文献
或る疑問と応酬