クトゥルー新世
また、わたしは「クトゥルー新世」(Chthulucene)という用語も必要としています。 “chthonic”と同じように、C-H-T-Hと綴ります。土と共にある者たち(the chthonic ones)とは、互いに絡み合い、引きも切らず生成と破壊を行う、大地に属する存在のことです。実際、これは堆肥体の同義語のようなものなのです。まあ本当にそうかというと違っているのですが、ともかく「土と共に」(chthonic)は堆肥体と結びついています。
それから、クトゥルー新世は、ラヴクラフトの家父長的なクトゥルフ(Cthulhu)神話のモンスターのものではありません。【原註3】 ラヴクラフトでは全然なくて、土と共にある(chthonic)のほうです。大地に属しつつ互いに絡まりあった外向的な力、内的な力、存在者は未完成のままで、わたしたちはそれら土と共にある者たちの一員として、過去だけではなく現に目の前にある、そう、状況づけられた繁栄の生成(a situated flourishing)のために連携している途中なのです。土と共にある者たちはいにしえの者たち(the Ancient Ones)でもありますが、それだけではありません。クトゥルー新世のテーマはむしろ、大地のように、大地のなかで、大地に属し、大地のために存在する者としてわたしたち自身を再確認することです。だから、わたしは「クトゥルー新世」が好きなんですね。ところで “-cene”という接尾辞はkainos、つまり現在(now)、それも分厚い現在(a thick now)、最近の時代、今という時代を意味します。ここでいう今は、瞬間的な任意の時点ではなく、応答能力・・・・(response-ability)、応答する能力を広げる時間性のことです。
メモ
「手痛い失敗に開かれている」
いいな
ポストモダン以降、在地性・現場性と哲学(者)の距離感は常に問題だと思う
参与・観察の名を借りた知的コロニアリズムに陥らないためにはどうすればいいか
当事者に語る言葉を授ける?
それ自体が言語的な侵食?
【訳註2】「愛玩動物や飼育されている動物一般を指す伴侶動物は、主人であるヒトとそれにつき従う動物のペアリングを前提にしているが、伴侶種は「1+1」という足し算自体を破産させる」(逆卷しとね「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想――」、『たぐい Vol.1』、亜紀書房、56)。伴侶種は、イヌとヒトのような予め分けられたカテゴリー(飼い主/伴侶動物)を出発点とするのではなく、なんであれ同等の伴侶の関係に引き込み、互いが互いを予測不可能なかたちで微視的にも大局的にもつくり変えながら、未決の存在へと一緒に生成していく接触領域を指す用語。根底には、本インタヴューでも語られている「同じものの再生産」、すなわち人間という種を再生産し、人間例外主義を維持する生物学的種の概念に対する批判がある。本インタヴュー中に登場する「遺伝子の水平伝播」も同様の趣旨である。拙稿を参照。
機械の環世界
強いられた生
畜産におけるアニマル・ライツの問題
それから学生ですね。特にエリック・スタンリーは、わたしの元学生ですが、しっかりものを考える人でね、彼は強いられた死だけでなく、強いられた生(forced life)にも留意するよう教えてくれました。強いられた生は、人間用の牢獄方面だけではなく畜産工場方面にもあるというわけです。エリックはわたしの授業でTAをしていて、彼のおかげでわたしは産業型農業の問題に配慮するようになりました。そう、ある種の人たちのおかげでわたしは変わって、配慮をして、考え、感じるようになれたんです。
いずれにしても、そういうことではなくて、実際わたしが念頭に置いている強いられた生というのは、わたしのも、エリックがわたしに教えてくれたのも、あなたのも同じ使い方だと思うんですが、次世代育成力(the forces of generativity)をすべてまとめて資源の抽出と利潤の獲得に向かわせるようなことに関係しているんですね。生きるためではなく、利潤を得るために資源の抽出をやるわけです。生と死に関する力を、繁栄の生成のためではなく、資源の抽出による利潤追求のために組織するということですね。
単なる食物として狩猟される動物ではなく、大規模産業としての食肉産業における商品としてモード化され、そのために「生きさせられる」「繁殖させられる」こと。生のありかたを組織化・合理化されること=プランテーション
それに、数百年、それどころか数千年もの長きにわたって農耕を発展させてきた生きものとさまざまな民が博物館の標本に成り下がるのは見たくないんですよね。食糧をつくる労働はいいものだとは思いますが、そこには屠畜と食べることが深くかかわるわけですよね。だから罪のない話ではない。無垢なことには惹かれたことはありませんから。わたしは生命尊重派(pro-life)には反対です。堕胎の政争の話だろうと、使役動物との関係の問題だろうと一緒です。生命尊重派の政治はその根っこでは絶滅指向(exterminationist)だと思うからです。
なぜ?
生命尊重派の論理が屠畜・狩猟といった「生きるために殺す」営みと競合するため?
そうした営みのなかにはイヌイットや遊牧民といった多数の民族の姿がある
そうした営みの多くがpro-life的なレトリックのもと、抑圧され国家・企業・資本に代替されてきた
食べることが「罪のないもの」になることはあり得ない?
自らを滅ぼすという意味での「絶滅指向」か、あらゆる民族的営みを駆逐してウォッシュするという意味での「絶滅指向」か
「再生産 regeneration」のナラティブ
「人口」とフェミニズム
それからわたし自身が、本当に心底から怒り、恐怖し、怖れ、不愉快な思いをしているのは、今この時点で74億人の人間が地球上に存在しているということです。まあとんでもない幸運に恵まれたら、わたしたち、ん、まあ、なにをもって「わたしたち」というのかわかりませんが、とにかく人間という種はですね、もしも・・・運がよかったとしても、今世紀の終わりには110億人をはるかに上回っている可能性が高いわけです。大規模な世界戦争が起こっても、人口動態は悪化するだけです。苦しみの動力源であるにもかかわらず、災害が人口減に将来つながることは絶対ないし、絶対つながらない。まったく正反対で、災害は人口増と同じような恐怖だというのが実態です。まあ、人口がフェミニストにとって地雷のような話題(a third-rail topic)にとどまっている理由はわかります。【訳註17】 女性嫌悪、優生学、帝国主義、人種主義、強制不妊手術と、まだまだトピックは他にいろいろあるわけですからね。
実際のカテゴリーとしての人口の歴史についてはよく知ってますよ。アリソン・バッシュフォードの著書『地球の人口』(Global Population, 2014)を読んでいるところなのですが、彼女の知識量はわたしよりすごい! それはちゃんとわかってます。とはいえどういうわけか、この手の議論のどれを読んでも、人口というカテゴリーを手放す気にはならないのです。どれだけ波紋を呼ぶものであろうが、わたしたちが仕事をする上で人口のカテゴリーは必要だと思うからです。バッシュフォードの研究は本当に深くまで掘り下げていて、マルサス的な装置、つまり人口の装置の、重厚で、莫大で、褶曲と多層化を重ねた堆積物を、中立の立場から批判的に掘り起こしていく仕事をしてくれています。とはいえですよ、70億超というのはただの抽象的な数字ではありません。もう一度フェミニストとして、フェミニストにはとどまりませんが、気に留める現実的な必要性がなにかしらあるんじゃないかと。ホントにほんとに、わたしたちはこの惑星上に70億人を優に超える数で存在している人間なのだ、ということを気にしなければ。
血統ではなく類縁関係を作る
でも、血のつながりがどうにかなってダメになったから、とにかくそんな家族は血統を貫くさまざまなつながりのなかに捨て去るべきだ、というようなことではないのです。しつこいかもしれませんけど、あなた〔サラ・フランクリン〕は血統の歴史すべてに関するわたしの大事な先生のひとりですよ。
そうではなく、類縁関係を違った感じにつくる、古いやり方と新しいやり方を両方組み合わせてつくる、ということです。長持ちして、長期的にも短期的にも世代を跨いだ類縁関係をつくる。子どもではなくて、違った感じの類縁関係をつくる目的の一端は、今後200年にわたって人口を減らす、それも劇的に減らすということです。でも、劇的に減らすなら、環境正義はただの目的ではなく手段になります。そうすれば、わたしたちは、人種・階級・宗教という人間の問題も含んだ、種を超えた繁栄の生成に真剣に配慮するでしょう。子どもではなく類縁関係をつくるというのは〔人口を減らして他の生物との関係を形成し、子どもに対するケアを厚くするための〕手段なんですね。【訳註19】
【訳註19】人口増加と類縁関係の議論に関しては、ハラウェイ「人新世、資本新世、植民新世 類縁関係をつくる」の原註17を参照。ハラウェイは、産児制限を推奨しているわけでも、子どもを産むなと言っているわけでもない。子どもを産むことと多様性のある世界で育てることの連続性を意識し、さらには人間と非人間との関係と親と子どもとの関係を、等しく類縁関係として考えるところにこの議論の焦点はある。背景には、人類学的親族関係(kinship)と人間に限定された垂直的な血のつながりの特権視に対する批判がある。昨今の少子化対策の熱に比して、環境問題を含む子どもを育てる環境の整備が遅れている現状を思い浮かべるといいかもしれない。
この辺の議論は世界99と通じるテーマでもありそうだ。見かけ上はオープンな「類縁関係」が実現したものの、実際には「人類学的親族関係」や性的搾取、再生産の労働・暴力が最悪な形で保存されている世界が、世界99の下巻の世界観だと言える 個人の再生産を特権化するのではなく、他種の生物や人種・ジェンダー・セクシュアリティ、経済的階級etcを超えたつながり=「分人」の生産、それによって子どもや個人が相互にケアをできるような社会の実現を目指す、というところかな
それに、世界中のわたしたちのあいだで起こっている移民問題は、子どもではなく類縁関係をつくろうプロジェクトの基盤でしょ。
なるほどだ。人口減少まっただなかの日本が広く移民を受け入れた時、「類縁関係」を開くチャンスが訪れる可能性はある。
現実的に日本人のゼノフォビアがどうにかなるかはわからないけど、、
ダナ・ハラウェイの「プロトコル」
わたしには、論文を書いたり講演をしたりするときにひと通り確認するちょっとした決まり事(protocols)があって、なにかとても大きなことを見逃していないか確認するよう努めたり、最低限そうですね、どんな仕事でもどの程度まで協働作業であるかということを読者や聴衆に対してはっきりさせておこうと努めているんですね。
そんなに体系的な決まり事ではなくて、ちょっとしたリストがあるだけです。白人ばかり挙げていないか、先住民をいないことにしていないか、人間以外の存在を忘れていないか、というようなことの確認ですね。意図的に。最低限の配慮すら怠ってきたのではないのか、と確認するわけです。あの時代遅れの不格好なカテゴリー、人種、性、階級、宗教、セクシュアリティ、ジェンダー、種をひと通り確認するんですよ。こういうカテゴリーすべてにどれほどの欠陥があるかはわかっていますが、今でも大変役に立つんですよ。ある種の警報装置ですね、心のなかの警報装置を開発してきたということです。
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