生徒エージェンシー
この枠組みは,児童生徒が2030年以降を生きていくために必要な種々のコンピテンシーについて幅広いビジョンを提供し,世界中の関係者が意見を交換できるような共通言語と共通理解とを示していると同時に,各国・地域・文化の状況に適合させるような余地を残したものである。 未知なる状況において児童生徒が意義のある,責任の持てる方法で自分の進むべき方向を見つけ,自分自身をナビゲートしていく(導いていく)必要性があることを強調するために使われているメタファーである。
コンパスを構成するのは
「態度・価値(attitudes and values)」 OECDラーニング・コンパス2030の中心概念である(OECD, 2019a; 2019b)
なお,OECDにしたがって「生徒エージェンシー」という用語を使用するが,この「生徒」には学習者という意味があり,幼児,児童,学生なども含まれる。 コンパスは,周囲の人々,事象環境によい影響を与えることを学んでいるときに,問題意識と責任を発揮して自らを方向づけるために生徒が使用するツールのメタファーであり,コンパスを駆使して歩んで行く生徒自身が行為主体(エージェント)であり,学びの主体である。
行為の主体であることを重視している
コンパスでしかない
生徒エージェンシーは,OECDラーニング・コンパス 2030の中心概念でありながらも,日本の教育においてなじみ深いものとは言えない。
Agencyとは何か
agencyを日本語でどう訳すか,あるいはagencyに対応する日本語は何かという問題は,それ自体が重要な作業である。OECD(2019b)が示しているように,エージェンシーの解釈は国や文化によって異なり,文化や言語によっては,エージェンシーに対応する語を持たない場合もある。
溝上(2018)が整理しているように,エージェンシーに対応する日本語としては,「主体性」あるいは「行為主体性」が最も近いと言えるだろう。 英語の教育関係の事典である Encyclopedia of diversity in education(Banks, 2012)では,エージェンシー(agency)を「自分が大切と思った目標や価値を達成するために必要と思うことを何でも行うとする自由」と定義されている 「新版現代学校教育大事典」(安彦ら,2002)の「主体性」
「人間の現実存在には,主体性が含まれている」
「みずからの行為を自分自身で自由に選択することができる『選択の自由』のないところ(すなわち,主体性を発揮することができないところ)に,人間として「生きる」ということはありえない」 「このようなみずからの行為の選択は,道徳的判断のほかに,たとえば,知的判断や情感的判断などが加わってなされる」
主体的人間がもつ資質として、
「自分は常に一貫した論理と行動をとる自分であるという意識と,そこからくる自分に対する確固たる自信がもてること」
「自分の将来の社会的役割にかかわる目標づくりができ,それを目指す使命感があること」
「目標を達成するために積極的である状態,あるいは効果を生んだり,影響を及ぼしたりするような力と能力を有している状態」
OECDラーニング・コンパス 2030
エージェンシー
OECDラーニング・コンパス2030において,生徒エージェンシーの概念は生徒が自分自身の生活・人生と世界に対してよい影響を与える能力と意志を持っているという考え方に根ざしている。
したがって,生徒エージェンシーは,目標を設定し,ふりかえり,責任を持って(主体的にresponsibility)行為することによって変化を起こす力と定義づけられる。
行為を受けるのではなく行為する,形成されるのではなく形成する,他者によって決定されたものを受け入れるのではなく主体的な決定と選択を起こすことに関係している。
別の箇所
OECDラーニング・コンパス2030において生徒エージェンシーは,生徒が社会に参画し,人々,事象,環境によりよい影響を与えようとする責任感(主体感 a sense of responsibility)を意味している。エージェンシーは,導きとなる目的を設定し,その目標(ゴール)を達成するための行為を同定する能力を必要としている(OECD,2018)。 エージェンシーは,行為されるのではなく行為すること,形成されるのではなく形成すること,誰かの決定を受け入れるのではなく主体的な決定と選択をすることである。
responsibilityの訳に注意が必要
日本語訳として最も用いられるのが「責任」という言葉になるが,日本語の責任には,任務,義務,非難されるべき責めを負うというニュアンスがある。
しかし,英語のresponsibilityの場合,第三者に依存せずに独立して行為したり,判断したりする機会や能力という意味もあり,エージェンシーの定義で使われる場合はこちらのニュアンスが強いと思われる(日本語にした場合は「主体性」の意味が近い)。