承認欲求の否定
我々は、他者の期待を満たすために生きているのではない
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」
他者の期待を満たす必要はない
他者の人生を生きることになる
承認には上限がある
満たしても満たしても満たせない
ついにはそれ以上得られなくなる
他人は自分にさほど興味はない
周りにいる人数も限られている
別に、これ自体に大きな問題を感じないmrsekut.icon
評価軸が他者に依存している
褒めてもらうという目的がまずあって、善いことをする
褒めてもらえないなら、善いことはしない
e.g. ゴミ拾い
他人と比較することになる
目的がすり替わる
承認を得るための目的に進んでいく
また、その先では、承認は得られない
承認のために、他人と異なる考えをする
しかし、他者か見ると異なる考えなので次第に承認しなくなる
承認欲求の延長に存在する負
自分の苦痛をみんなに認めさせたい
愚痴
こんなに頑張ったのに、、なんで認められないんだ、、
先日、梅田の高層ビルの屋上から女性が飛び降り自殺した事件があった
その映像がTwitterに流れて少し話題になった
「自殺に追いやられるぐらいあの子は頑張っていた」と社会に思わすために、思ってもらうために、そんな行動をとった、というのも一つの動機になり得る気がする
あの事件がそうだったのかは知んけど
環境も大事
承認が得られないと、生きていけない世界線が存在する
まあ、「承認欲求」と「承認」は別の話かなmrsekut.icon
mrsekut.iconの話
大学2回生の終わりぐらいに、狭い世界の中で自分が優れていると錯覚していたときはこの欲求が強かったように思う
そこで少し見る世界を広げてみると化物ばかりだということを知った
ここで、自分がまだまだだということに気づいた
もう一つは、今のバイト先、会社の雰囲気的にお互いが尊敬しあっていて食事の席では自然に互いを褒め合うことがしばしばある。たぶんこういったところで少しずつ満たされていって、SNS上や初めてあった人にわざわざイキる焦燥感も減った気がする
というのと、バイト先や前のインターン先、などなど強いに人に限って自分のことを強いアピールをしないのでそういうのに対する憧れもあるんだと思う
実際、強い人は自らアピールしなくても勝手に評価される
とは言うものの、まだ完全には払拭できておらずたまにTwitterでアピりたくもなったりする
本読んでますアピールとか実際全く無意味?だしなあ
やたらいいねもらえるけど