評価されるために生きているわけではないが、評価されないと生きていけない
以下の2つ
評価を求める
評価などガン無視で好きなことをする
本質的な幸せのためには後者だけで良いと思っているが、それを達成するためには前者が必要になっている感じがする
今の社会的に
どういうことかというと、「強い人と接することで自分の成長がある」、という前提のもとで
強くなるためには強い人を見る必要がある
→強い人がいる組織に参加する必要がある
→強い人がいる会社や研究室に所属する必要がある
みたいになる
そしてそれに参加するためには就職の採用や、インターンの採用、入学や入室のための試験や面接のように誰かの評価を仲介する
ので、好きなことを好きなだけ極めていても、誰からも評価されなければ意味ない、みたいな構造になっている気がする
この能力は、憧れ駆動だろうが、金駆動だろうが、役に立つ能力な気もするので備えて損はない気もした そもそも他人からの評価はどうでもいい説
「好きなことをやる」を突っ走った思想
mrsekut.iconは割とこれに賛同しているが、度々ぶれている
ブレている理由は上に書いたやつと、そもそも憧れ駆動なので本来的にはここを替えないと一生悩んでいそう つまり、完全に「好きなことをやる」一本の場合、誰々が凄い、だからそうなりたいという発想にはならない
どこか自分の中で「評価されたい」みたいな気持ちが働いているせいでぶれている
大学受験や、インターン面接、企業の採用とかがある限りこの問題は蔓延り続ける
彼ら側からしても優秀な人を取りたいし、思想が乖離していない人を取り込みたい
彼ら側からしても「評価する」軸は必要になる
それが果たして「この言語を書けるから」とか「競プロなどのコンテストで強いから」みたいなもので良いのかという気もする
そもそも、そういう団体に所属しようとしなければ良いじゃんという反論もできる
つまりアーティストのように、自分の信じるものをとことん突き詰めていけばいい
アーティストがみんなそうとは思わないけど
もしくは自分でサービスを作るなり起業するなりして評価が介在しない立場に立てば良い
とは言ってもそれをするためにはまた別に考えないといけないモチベーションが出てくる
mrsekut.iconがそういう団体に所属したいと考えている理由は、成長に繋がりそうだから
つまり、すでにサービスがあったり、幾人かの意思決定に参加し、適当な強制力も働きながらながら知識のインプットとアウトプットをできる場というのに価値がある
実際にいくつかの場でそれを体験して思ったmrsekut.icon
もう一つの大きな理由は、そこで働く人に関して知れること
強い彼らが何を思って仕事をしているのか、どう生きているのか、どう生きてきたのか、そういうことに興味がある
そもそもすごくならなければいけないのか?