ポリコレと言葉狩りの違いは?
しかし、言葉をなくしても思想はなくならないのでいたちごっこになるだろう
master/slaveという学術用語は学術用語だが、奴隷制を想起させるとして使うのをやめろという話がしばしばおこる
GitHub Chief Executive Nat Friedman said the firm is working on changing the term "master" - for the main version of code - to a neutral term.
個人的な感覚ではmasterはneutral termだが、奴隷制のあった国ではneutral termではない
昔は許容されていても、差別用語として盛り上がることがある
昔の漫画は「今だと差別的かもしれないけど矢という断り書きを出版社が入れる
この考えを推し進めるとめちゃくちゃになる
「「米」は差別用語なので「ムチャルクチャケッチャラホイ」にしよう」という主張はアホか、意味不明だと思うでしょう?
適当な人の集団に対して侮辱的に「ヤードポンド野郎」って呼ぶことでヤードポンドを差別語にして撤廃させよう
世界標準のSI単位系との換算がややこしいヤード・ポンド法。アメリカが使っているのでなくならない。
状況はこれほど明確でない。アメリカ合衆国では、例えば自動車製造のような特定の分野ではメートル法が主に使われているが、航空機製造においては慣用単位が使われている
料理をするのは、当然母親だけではない
ファミマのイメージは、きっと次のようなものだろう
料理に一品加えるという商品である商品のイメージにあう広告はなにか?
「おふくろの味」という言葉があるように、母親のご飯に愛情や懐かしさのようなものを感じる人は多いだろう。当然おばあちゃんが作ってくれる人、兄弟が作ってくれる人、はたまた自分で作らなければいけなかった人、多くがいるだろうが、最も大きな集合は母に作ってもらった人だろう。これは伝統的にそのようなマーケティングも行われてきた。よってこれを採用する
「お母さん食堂」以外にも、従業員が社食の代わりに購入できる惣菜「オフィスおかん」、2018年に終了したDMM.comの家事代行サービス「DMM Okan」など、家事に関するサービスには母親の呼び名がつけられることは多い。
コンビニは、世の中のお母さんの負担を減らしている側である
『お母さんが食事をつくるのが当たり前』というアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を助長しかねません
国立社会保障・人口問題研究所の「全国家庭動向調査」(2018年)によると、夫婦の平日の1日の平均家事時間は妻は263分で、夫の37分の約7倍にのぼる。
この事実からは、無意識の偏見ではなく、そういう現実がある
この現実を変える必要があるのか。かえるためにはどうすればいいのか?
ちなみに、「おふくろの味」はかなりポジティブなイメージがあるが、この論理ではこれも使えなくなる。「家庭の味」だろうか。家庭がない人への配慮が必要ではない理由は?
言葉狩りの問題点
思想は変わらず、見えなくなるだけ
人間が考えることは急激に変わることはないので
バカッターをみて育つとTwitterに意見を書かなくなる discordやLINEなどでやるようになる
ゾーニングはされる
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