作者と作品を切り分ける
幼少期の思い出に遡る(2008年度まで)
クラス内で身分が低かった
いちど「こいつは〇〇キャラ」とみなされてしまうと、何を言ったかは顧みられなくなる
これにより強烈な理不尽を体感、発言者に関係なくその内容を重く見るようになる
つまり、「作者と作品を切り分けないと、自分に不利益が生じる」というのが自分のこの考えの始まり
2010年以降、Twitterでネタツイートを書くようになり、その傾向は深刻化した
ツイートのインプレッションは、内容よりも「どのアカウントであるか」が重要
これは単純に目に入る頻度が違うので当たり前ではある
しかし、同様の(自分のほうが面白いと思える)ツイートでそれを体感するとやはり理不尽
当時はShootingStarなどのTwitterクライアントや、既読感覚でお気に入りに登録するユーザーも多かった
ひねくれすぎておはよう係数やDM大喜利 うでくらべを考案する
インプレッションが作品の質と同一ではないという当たり前のことを個人が理解していても、それを大衆が理解していなければ意味がない
特定の個人に刺さればいいと思っている人間ばかりだと思うなよ
こういう考え方がシャバいとかフェイクだとか思われるような空気感の中にいて本当に腹立たしい
上述の経緯から「過程が大事である」「作品の質よりもその人の生き様が大事」という内容に一切共感できない
アウトプットした人の身分や過去に関係なく、正しく利益が得られて効果が適用されるべき
そのため、無断転載を推奨しているわけではない
逆に、無断転載を介してもアウトプットした人が利益を得られるしくみなら、それはもう超OK
「何をやるかよりも誰がやるかが重要」である場合、「何」の質を上げるよりも「誰」の質を上げる方が効果的になる
それってさすがにおかしくないですか?
それは変えられないと感じているので、きっかんは外に与える印象をかなり気にして生活・行動している
いつか作品を出したときに評価されなかったら、許せないから
そういう意味で、生成AIを活用したアウトプットは、「誰」を持たない多くの人に選択肢を与えており、上記の主義とはかみ合わせが悪いだろうなと思う
一方で、作品を鑑賞/評価するにあたって「どういった経緯/背景/意図でそれを成したか」を考えることには意味がある
まったく作者と作品を切り分けることはできないということは、理解しているつもり