試論: デジタル・アジールの模索
「思索の防衛」と「公共性の作法」をどのように両立できるだろう。
このようなCosense.iconパブリックプロジェクトは、教室のアジール性のようなものを備えた半公的/半私的な避難所に近い。 こういう場で、「嫌だ」「不快だ」という私的な感情の表明をするだけの行為は私的な側面を強く帯びすぎる。
他者が納得すると思われる公共的な理由(私的な理由ではなく)へと、自己の私的な感情を翻訳し、世界性を共同構築する義務を負うのではないか。 actionを伴わない表明は、他者を対等な人間としてではなく、「ケアの対象」と貶めかねない、複数性に対する道徳的に不十分な行いと思われる。 このことを以下の4つの論点から書いてみたい。
1. 1. アーレントの視点に立てば、公的領域に現れることは、自身の「誰であるか」を言葉と行為によって示すこと: action 単なる「嫌だ」だけの表明は労働の域を出ず、世界を構成しない 逆説的にこれらは思索を他者に侵食され難い「修辞の壁」を備えた世界の一部となって、安易な介入を許さない「現れ」の作法となる
1. 2. 「嫌だ」のその内容の精査の前にたずねるべきこと
正統性(legitimacy)を調達しない決定や配慮(つまり「嫌だ」と思われる行為を改めること)は、相手を「宥める対象」として扱うパターナリズムを含んでしまう (参照はペティットの共和主義論)
2. 思考を省略しない
2. 1. 「因果の記述」から「規範の強制」への変容
つまり文脈を削ぎ落とした「聖句」としてコミュニティにフレーズが流通し始めることで、個別の判断を不要にするリストに記述が変質し、参加ユーザーのイマジナリーな領域への権利を侵害する 2. 2. 本来そのフレーズが備えていた複雑な背景(修辞の壁)を失い、ミーム化すると、対話を一方的に終わらせかねない必殺の切り札のような機能として前景化してしまう 誰もが聖句を引用するだけの均質化された存在へと変わるとき、複数性が衝突しようとする場としての「活動」は消滅し、公共圏はわかりやすさによって支配される この聖句が使われるとき、「良いアイデアがあるならば」という前提条件や、軍という特殊な組織文化といった背景はどこにいっているのだろう
聖句への還元によって、文脈を考慮した思索は不要となり、あらゆる場面で便利な武器として多用される
このフレーズは、「対戦=攻撃、論理的殴打」という単一のネガティブな意味で使われているように見える。
例えば、対話における「先読み」という行為は、相手の反論を予測し、自らの論理を推敲するというような自分と相手両者の自由(複数性)を尊重するようなものとしても捉え直すことができるだろう
またそれは、対戦相手と共に、両者が予想もし得なかった新たな盤面(意味の世界)を生成する共創的な行為(社会構成主義) 特定の解釈の固定、再固定のループは、我々が世界を多様に捉え直すための多義的な言葉を、単一の意味だけへと閉じ込めてしまう
3. 思索の時間性に対する構造的暴力の検討
3. 1. 「過ちが許される時間」の確保
國分功一郎の指摘の通り、「過ちが許される場所」として教室のアジール性を指摘していた。これは効率や論理から切り離されて思索を積み重ねるための固有の時間が必要ということを示唆する。 思索中の割り込みの多発は、パノプティコンのように働きかねないのではないか。 3. 2. とはいえ過ちの指摘に基準を作れない
「思索の邪魔」を他者に許さないのであれば、私的な空間において現れのための修辞(武装)を整えてからパブリックな場に臨むべきである 他者の言葉が一定結実するのを待つ行為は、相手を「思考する人間」として尊重するための儀礼だと思う
不確実な未完成状態に耐えるこの「待機」の能力は、アジールを「情報の高速処理場」から「人間的な現れの空間」へととどまらせるだろう。
ここに、対人援助の専門職でなくとも、小さなPCAを実践する必要性があるのではないか。 孤独は効率的なプロセスの邪魔者として排除され、解釈の多様性は情報の断片として平準化する
あるいは、川喜田二郎が求めたのは個人の沈潜による叙述(文章化)を通じた創造性であったはずなのに、現代では集団での情報パズルになってしまった 4. 2. Cosense.iconにおける身体的なwith-nessへの誘い
「邪魔されたくないのなら私室で書け」という分離は、機械的な解決策にとどまる。
Cosense.iconの真価の一つは、他者のカーソルの動き(気配)を視覚的に捉え、言葉が書かれる(あるいは修正される)と同時にそれが目撃される「同時性」にあると思う。
重要なことは、他者の言葉を自分の成果のための「ネタ」や「ダシ」としてだけ消費するのではなく、相手と自身の生成プロセスを〈目撃〉しながらそこで共にあり続けよう(with-ness)とする能動的なコミットメント これが個人の孤独(アジール)を尊重しつつ、関係の中で新しい意味を創出するこのメディア固有の公共性の形ではなかろうか。
——とここまで書いて、1年前にも似たことを書いていたことを思い出したterang.icon