切り出し行為の倫理コードあるいは道徳性
暫定タイトルterang.icon
from 2025/04/20
複数人Projectの切り出し行為、するもしないも積極的傾聴の所作っぽいなと思った。その行為へのフィードバックも含めて。terang.icon
言い換えると、相手へのhelpingなのか、自身の未完了のゲシュタルトを解消したいがゆえなのかの違い。
(脱線)自身の未完了のゲシュタルトを解消の部分が知識不足で意味を読み取れなかったtakker.icon
✂ to 未完了の仕事
✂ to 1, 2行書いてからすぐ自分で切り出しちゃう
例えばこのブロック、長くなってきたので切り出したいが、よさげなタイトルとして抽象化できないので自分で切り出しづらい切り出した
よさげなタイトルつけてカッコつけたい欲みたいなのがあるのかもしれない
個人的には、自分の日記は自分が忘れたころに切り出したいという、ゆるい希望がある
でも他人に切り出されるのは別に構わないと思っている
だろう…か?
「いやそういうタイトル(抽象化したフレーズ)じゃないんだけどなー」とかは思うかもしれない。思ったところで訂正したり代案を熟考するかはそのとき次第。
あえてそういう気持ちを引き出して、よりよさげなタイトルに書き換えるモチベを引き出す戦略みたいなのをどっかに書いた気がするtakker.icon
あった。タイトルを考えずに切り出すことで詳しい人に直してもらうだ
(状況や相手との関係にもよるでしょうが)不誠実というか、道具主義的な話ですねterang.icon
要はルールのように何かに固定するのではなくノームを都度感知するvirtueを持ってして道徳的パティキュラリズムを実践か。
ツールが重いかどうかにあんまり行動を左右されたくない感覚はある
それは道具がプアなんだから人間に合わせろや、という感覚
まあ広さが制限されたキャンバスの方が創造性みたいなもんが生まれる的な反論はあるかもしれない。それもわかるけども。
こんなページもあったのか: 文字数が多くて重いという不便ドリブンの切り出しをしてる
相手個人の助けになるかなあ、という想像によっての切り出しなら握手が交わされそう。冒頭のHelpingの話に戻ってきた。
これはあくまで1対1の関係でのHelping行為。書き手の助けになるだろうか、という視点。
「別の第三者が重いだろうから」も、「助け」っちゃ「助け」だけどちょっと別のものとして切り分けたい
まああと自分で切り出してはみたが、今日の日記(2025/04/20)では他エリアでもかなり近いテーマで各自が何かを書いていたので、なんか遠くなっちゃったなあという感覚もある
関連言説を全部切り出して、MoCページでも作れば解決するだろうか。やりたい人、やりたくなった人、必要だと思った人がやるのだろう。無理に整理しなくてもカオスでいいや、むしろカオスの方がよさそうじゃん、という感覚もある。
ところで「書いている最中」というのはいつまでが「書いている最中」なのだろうなあ。。
もし反応も切り出しもどうしてもされたくないようなことを書くときは一旦自分のprivate projectで書いてからコピペする、ということはたまーにある。
たとえば今ちょっとした論文を書いているがその途中内容はパブリックなところには決して置かない。
論理が整って主張がまとまり、それを表現し切れたと思えれば、ピリオドを打って然るべき場所でパブリックにして(あるかはわからないけど)批評に身を任せる。
ほうほうSummer498.icon
もしかしたらこれは有限性の議論なのかもしれない。
ミシェル・フーコーにもご登場いただきたくなってきた。
フーコーってそういう話もしてたんだtakker.icon
パノプティコンとか狂気の話とかしかしらなかった
『言葉と物』のエピステーメーの話を今回は文脈的に参照したくなった次第terang.icon
狂気は『狂気の歴史』で正常性の線引きとか、パノプティコンは『監獄の誕生』の生権力の文脈ですかね
フーコーを解説する本だとどちらも主体性=従属の話がよくされている印象
そういえば主体性の話は精神分析とも繋がってくるから、ゲシュタルト理論と繋げて考えると面白い何かが書けそうだなあ。
2025/04/20頃始まった切り出し系の話題