『清唱千首』で気に入った歌
春
四
九
万葉集・巻八・春の雑歌・一四一八。巻頭第一首
「の」音の繰り返しの音律がまず良い。
早蕨の萌え出づる春というのは、どういう心がそういわせるのだろうか。早蕨を見たことのない身にはとても推し量れない…cFQ2f7LRuLYP.icon
万葉集・巻十九・四二九〇
仮に三句目が「うら嬉し」であったなら凡庸極まりない歌になってしまう
春夜と言えば梅の香りである
万葉集・巻八・冬の相聞・一六五六
「思ふどち」は、気の合うもの同士や仲間のこと
梅の花よ、さかずきに浮け。親しい者同士で飲んだあとはもう散ってしまっても構わない。
「思ふどち」という呼びかける趣、「ちりぬともよし」の潔さが良いとの筆者評。
塚本は「浮け」と命令形を取っているが、手元の万葉集(岩波文庫、2013)では「浮かべ」となっている。各々どんな本・写本に基づいてこの読みを採ったのだろうか?cFQ2f7LRuLYP.icon
萬葉集・巻八・春の相聞・一四五一。「大伴家持に贈る歌一首」
相聞の歌。
o音の連なりが心地よい。
みずとりの、かものはのいろのはるやまの、おぼつかなくも、おもほゆるかも。
春山を「鴨の羽の色」に喩える。
cFQ2f7LRuLYP.iconだと「春山の色は緑色だなあ」という実にまずしい色彩感覚しかないが、笠郎女においてはそうではない。
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このような羽色をしている鴨がいる。笠郎女が想像した春山はこのような色だったのかもしれない。
もちろん、萬葉集における「鴨」がなにか種族によって使い分けされているのか、カルガモはこの時代から日本に渡来していたのか、笠郎女が想像した鴨の羽色はカルガモといえるのかなどは未調査。あくまで参考であります。
潤みを帯びた黑綠色を鴨の羽にたぐへたのだらう。(...)また萬葉の綠は靑と分ちがたく、鈍色・灰色をも併せて靑と呼んでゐたやうだ。(p.30)
わが身を霞に寄せて儚さを歌う
萬葉集・巻二・一六六「挽歌」
馬酔木の花
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入相(いりあい)
太陽の沈む頃。たそがれどき。暮れ方。日没。(日国)
一〇九
義孝。夢とはるのはかなきものおもふの語感
一一二
兼盛。哀傷歌。実頼の歌と合わせて鑑賞したい。
一一六
元真。春の眠りのまま揺蕩うていたい。
一二九
中務、哀傷歌の趣きはない
一三二
守覚法親王、あらましにいとふはどのような意味?
一三四
源頼政山守の来る音すなり馬に鞍おけ
一三五
崇徳院思い寝のうちから桜が咲き始める
一四〇
いざ、かは。
一四二
肥後、四月に咲きたる花。
通常季節歌の規範意識は、こうした歌を春歌に置くことを許さない
技巧がとんでもない。
寝覚の袖の花の香、枕の春の夜の夢という格助詞「の」がこれだけ入っていてしかも歌が崩れていないのってどうなっているんだ?cFQ2f7LRuLYP.icon
夏
秋
古今・恋二・五八六。
「かきなす」は「掻き鳴らす」と同義、「はかなく」はこの揚合「心細く」を意味する。戀は戀でも、やや廣義の人戀しさを含むものではあるまいか。第四句が冗句に似つつ、一首に危ふくあはれな陰翳を齎してゐて忘れがたい。(P144)
冬
降る雪は消えでもしばし止らなむ花も紅葉も枝になき頃
道にあひて咲まししからに降る雪の消なば消ぬがに戀ふとふ吾妹
春の花秋の月にも殘りける心の果ては雪の夕暮
恋
瀧つ瀬に根ざしとどめぬ萍の浮きたる恋もわれはするかな
こひこひて稀にうけひく玉章を置き失ひてまた嘆くかな
いつはりの限りをいつと知らぬこそしひて待つ間のたのみなりけり
九〇五
2021-12-17 18:42
2021-12-17 08:02
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2021-12-02
2021-10-22 20:14
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21-09-27 21:12
21-09-26 20:33
21-09-25 22:41
21-09-20 08:28 春歌よみ始めた
21-08-12 21:59 買った