2021/01/18-2021/01/24
刺激がないと意識がはっきりしない
恐怖を振り払えない
でも
刺激があると脳の気が散る
チコちゃんの唯我独尊ゲーム
最終巻小芭内の告白は、どこかしずかちゃんのパパの台詞のような、人間性の肯定としてよ色があって、言及された人の株もまた上がる。 巨人の肩に乗らなけらればならないのか
⇔雑学がいくら増えても意味がない
もしライオンに、取りすぎた肉を燻製肉として長期保存できるオーパーツが与えられたら、他の生物を狩り尽くしたのではないだろうか。
読んでない本を堂々と語る、方法があるというのなら、買ってない本を身に付ける方法というのもある程度体系化できるのだろう。
バイデン大統領「白人至上主義の
問題って、なかば時代遅れになる頃まで、取り組めないものなのかなあ。
100を得ようとして30しか手に入らないし、そこからも失い続ける下り坂人生を、「幸せだった」と思えるか。
対処し、生存確率をあげ、余裕を蓄積し、将来の苦痛を減らす。
将来に実を結ぶかもしれない基礎研究、というのにどこまでそれらのビジョンを自分なりに感じるかはわからない。
バッテリーがもたなくなってきた。長持ちさせるのには、フル充電や、(寝てる間などの)充電しっぱなしをやめる、というのがあるけど、それもまた「もたないからやってしまう」部分がある。悪循環。
iPhone結局使いすぎなのが悪い、いや、iPhoneが気軽に買い直せないほど高いのが悪い。
一派化しすぎでかつ個体差をまとめすぎ
魔法を使える感触はあるのに、そのための呪文が思い出せない魔法使いがいたとしたら、似たようなもどかしさを憶えるかもしれません。
⇒最終的にできあがったものは、形だけ見れば「段差付きリスト」の形式なのに、不思議なものだ。
人はよく幸福と快活を混同するのだが、幸福はかならずしもはでで明るくてにぎやかだとはかぎらないのだ。幸福は、種のない、うすい皮の中でほの赤く甘くなるスイカのように熟すものだ。スイカのように、じみな暗い色をした皮ですっぽり包まれていることがあるのだ。” (『ぼくと〈ジョージ〉』カニグズバーグ) 排水口を見つめてるだけの時間
深夜番組が終わった後、何も流れてない場面を見つめ続けてる……みたいな夜も幾度となくあると思うんですけど、それをぜひとも乗り越えていっていただきたいなと思うんですね。
⇒とはいえ私は、意識をアップロードもしたいし、首にコネクターも結構つなぎたいのだが。
老人の「貧困でもいいじゃないか」という戯言だ。無論いいはずがない。私たちは後の世代に希望を残すべきであって、くだらない現実を押しつけるのは怠惰以外の何ものでもないだろう。
個人の楽しさがある中で、価値が発生しうる状態を維持すること。
⇒これ、逆順じゃないんだねー。
まあ、ブログ書きなどであれば、当然そうありたいけど、生活全体のポートフォリオだと
、まず食うことが先にあって、仕事をなんとか楽しくする、になってしまうけど。
共(コミュニティー):互酬性
公(政府):再分配
私(市場):交換
⇒「私」って市場なのか。言い過ぎな気もするけど、「確かに。」と思う部分もある。
「クラスタ」くらいしかなく、そこにはコミュニティーは立ち上がらなかった。そうしたコミュニティーは、オープンな意識を啓蒙する派閥からするとあまりにも閉鎖的だったのかもしれない。
⇒まあね。それくらいが心地良さそうだと感じるよね。
「交換」という行為を通して、さまざまに散らばるコミュニティーの互酬性の中で育まれた蜜を世界中に流通させる一つのノードとして認識できるようになる。それはつまり、個人が二重の楽しみを持てることを意味する。
⇒「おい、それを商品化するのなら、分け前を1割よこせ」
そういう人たちにとっては、キャリアや家族は幸福な人生には欠かせない重大な要素である、という事実は不都合なものとなるだろう。幸福は態度や努力や行動から訪れる、ということすらからも目を背けようとするかもしれない。
逆に言えば、飲食による快楽……それも、チェーン店での食事やコンビニで買える酒から得られる快楽は、数百円さえあれば誰でも得られるという点で、民主主義的で平等主義的な「幸福」である。
要するに、インターネットにおける幸福論で起きていることは、凡庸で無能で哀れな庶民たちによる、幸福の「引き下げ」だ。キャリアや家族や人間関係に恵まれている人が感じている豊かで充実した幸福は無視してしまい、幸福と快楽を同一視することで、ほんとうの意味で幸福である人とそうでない人との間に存在する差を無くそうとしているのである。
ただ、そういう「岡目八目気取り」に出会ったときに、一笑に付すよりは、なるべく対話をするようにした方がいいのでは? と思ってる。
説明のために自分で整理する中で、自分の見落としに気付いたり、現状よりいいやり方のヒントを得られたりすることが、何度かあったし。
こちらの説明を聞いて「じゃあ、自分がやってみよう」と挑戦してくれる人が現れたこともあったし。
打率は高くないけど、意義はあるんじゃないかと思って、今でもできる限り対話はするようにしてるつもりでいる。
今の自分は、輝かしい未来の自分を実現するための手段でしかない。
そんな風にぼくは考えていた。
そしてそれは、自分が想像する自分自身の未来が輝かしいものである場合に限り、うまくいく考え方だった。
ぼくの仕事は、この世界に暮らしている人々にほんのわずかな変化をもたらすかもしれないし、そういう意味では、ぼくは彼らの人生の未来にも関わっているのだ。
ぼくは、名前も知らない誰かから、ほんの少しずつの未来を託されている。
それを次の未来へとつなぐだけで、自分は十分に生きてきたと言えるのじゃないだろうか。
おれは虚空に向かってしゃべる才能がある。病がある。
しゃべるといっても、声を出して話すわけじゃない。
けれど、文章を打ち込んでいる間だけは、生きているような気がしているぜ。
『note』『cakes』は、新しい書き手をたくさん世の中に送り出していて、それも、「けっこう長い文章で自分語りをする人」が多かったのです。
2000年代前半のブログブーム(「眞鍋かをりのココだけの話」の開設が2004年)から、15年くらい経って、あまりに「商業化」しすぎた個人ブログが下火になり、ツイッターやインスタグラムなどのSNS全盛になったのが今の時代、だと思っていたのですが、新型コロナという「非日常の世界」に直面することになった影響もあってか、長くて濃厚な個人ブログ(あるいは自分語り」が再評価されるようになってきたのです。
もともと、2000年くらいのインターネットの『さるさる日記』『エンピツ』のような個人日記サイトの文化のなかでは、「珍しい職業に就いている人が、匿名で仕事の裏話をする」とか「結婚相談所で紹介された人を評価する婚活日記」とか「不倫日記」のような「下世話ではあるけれど興味深いコンテンツ」が人気だったのです。
「困った人」「めんどくさい人」「ぶっ壊れていくのを見たいけれど、直接お友達になるのは遠慮したい人」をノーリスクで観察できる、というのが、インターネットというアングラワールドの面白さだったんですよ(そういう役割は、いまのYouTubeに受け継がれてもいます)。
『note』というのは、課金システムなど「ファンを囲い込みやすいシステム」を確立したのですが、それは同時に「少数のファンに祭り上げられた無名の人が、どんどん増長して暴走していく『神輿システム』の誕生でもありました。
これまでの「拝金ブロガー」は、アフィリエイトで出会い系やFXや仮想通貨に人を送り込んだり、お金関係のセミナーに勧誘したり、という他人がつくったものを売る「ネットビジネス」で稼ぐしかなかったのだけれど、『note』は、「自分の人生そのものを売り物にして稼ぐ」という仕組みをつくりあげたのです。
「ごく普通のネットメディア、あるいはプラットフォーム」になってしまうような気がします。お上品な『週刊大衆』や女性の権利に配慮した『週刊プレイボーイ』が、読者への希求力を持てるのか?
課金するためにクレジットカード情報を入力することに不安を感じる人もいるでしょうし、世の中には「みんなが読んでいるものだからこそ読みたい」という人も多い(僕もそうです)。
実際、「スケールメリットよりも、固定客を掴む」というのは、理屈としては納得できるのですが、実際には、「見て(読んで)くれる人が少ない場所に、自分の『渾身の作品』を投入する」というのは、けっこう勇気がいるのです。やっぱり、「多くの人に読まれるところに、自信があるものを出したい」と思いますよね、僕もそうだから。
有名人の「有料note」とかも、「そのままでは売り物になりにくいレベルの商品」みたいなのが多くて、それを「ファン向け」に有料で売るから、「有料noteは信者ビジネス」みたいな感じになってしまう。
たとえばExcelのテーブルの作り方や、PowerPointのちょっとした図形処理などがそうだ。これらは「ライフハックではなくMSOfficeのマニュアルではないか」と思われることになる。こういう情報ほど「誰かの役に確実に立つ」のに、ライフハックらしくないのである。
「ライフハックらしい情報」はExcelやPowerPointなど、極端に限定された文脈に左右されない「有益な方法論」だ。だが逆に文脈が広くなりすぎると、こんどはたとえば「論語的」になってしまう。「知ることを知るとせよ。これ知るなり」といった「訓話」であって、みんなの役に立つだろうが、ライフハックとはいいがたい。
ライフハックとはある意味ではマニアックで、習得に時間がかからず、特別な知識も必要としないような、小技の集合だ。すぐに実行できるから、受け取る方には手軽なメリットがあっても、情報を出す方は一定のリソースを割くわりに、受益者に「やり方」だけを持っていかれて、発信者のことは気にもとめてもらえないことが多くなるだろう。
それらの人は現状の「使いにくくなったインターネット」にイラ立ちを覚えていて、それはもちろん「情報発信によって儲けられるようになった」ことと無関係であるはずがないからである。
情報の発信が難しく、そのモチベーションを失いやすく、しかも嫌儲にさらされやすいとなれば「ライフハック界隈の10年が失われた」としても不思議ではない。
⇒俺らも責任の一端?