息子が天皇について考えたのを考える
息子が天皇について考えたのを考える
子供が中学生になると、
「父ちゃん、天皇っていてくれてよかったと思う? 尊敬とかしてる? 神様の子孫とかじゃなくて人間でも?」
って疑問を持ってきたりする。
中二病らしく、かつ、それの健全な方向性の発露だな、という感じ。
「現天皇陛下に対しても尊敬は感じてるし、上皇になった先代についてもそう思っているよ」ってことはとりあえず答えるけど、理由まではとっさにはまとめきれなかった。
どちらかというと、先代とのほうが、同じ時代を生きた愛着のようなものが深くて、尊敬の念をよせている度合いは、むしろ大きい。
彼らに強いる犠牲なりハードルなりが高すぎるから、いつかどこかで終わりにするべきなのかもしれないな、という方向性は、考えなくもない。
でも、尊敬がないのか、必要がなかったのか、と言われると、それは違う。これらははっきりと「ある」。
権力ではなく権威の頂点、とか祭祀の代表とか、学術的な言葉ではいろいろ定義付けされてるけど、自分の心的な言葉で語るのなら、次のような形になると思う。
例えば、災害が起き、その被災の状況が長く続くようなことがあるとする。
そういうときに、総理大臣が「皆さん、おつらいでしょうが、もうしばらく頑張ってください」というメッセージを発したとして、それを素直に聞けるだろうか?
という問題だ。
たぶん、
「メッセージ出してる場合かよ! 言葉だけなら子供でも言えるんだよ! お前はするべき仕事をやってんのかよ!」
という反感の方が強く出てしまうと思う。被災地を巡ることにしてもそうだ。別に総理大臣が現地に足を運んだからといって、復興の指揮がはかどるようになるってことはない。
でも、人間の心はそこまで合理的に割り切れていなくて、苦しいときには自分だけが取り残されているような気になるし、気持ちが沈んでいるときには、「そうですか、つらいんですね」って、心に寄り添ってくれる存在を感じたい。
そういうときに、100%実権のない人がメッセージを発してくれることの価値が生きてくる。
勲章とか表彰にしてもそういう要素があって、総理大臣が「感動した!」といってスポーツ選手を表彰するとき、「そのスポーツ選手の好感度を、自分の選挙イメージに結びつけて、潜在意識での好感度を稼ごうとしてるんじゃないの?」という反感なり疑惑なりを感じる。
その意味で、天皇と総理大臣と、どっちを自分の潜在意識が『偉大だ』と常日頃感じているかに関係なく、天皇陛下から勲章をもらった方が心が穏やかでいられるのは、たぶん間違いない。
そういう信頼感の蓄積のようなものが、平成の30年間を通してあって、(人生四十数年の大部分)やっぱりそこには尊敬のようなものがあった。
政治の代表者というのは、能力を優先でその担当者を決めないといけないから、振る舞いや人格面では、必ずしも高潔じゃない人でも、“使える”人間を登用しないといけない場合がある。
別に、精神的な見本までを、そいつに求めちゃいない。
でも、ここでもやっぱり自分の心はそこまで割り切れたもんでもなくて、自分が苦しい状況だったり、非才に嘆いたりしたときでも高潔でいるためには、そういう「善き精神の象徴」みたいな存在がいてくれることが救いになるかもしれない。
私の思う、権力と権威の分離というのは、この数十年間の感覚としてはそういうことだった。
アメリカとか、「我々の精神を代表しているのがトランプ氏だ」ってことになるの、それなりにつらいものがありそうじゃないですか?
でも、外国企業に対して、あるいは貿易協定に対して、高圧的なディールをかましてくれる実権者というのは欲しかったから、ああいう人を国父として投票したわけですよね?
そこが分離していることに、ある種のこころよさがあるのは、選択としてはあり得るのだと思う。
その負担をお願いし続けていいのかは、それは本当にわからないところではあるんだけど。
from 2021/01/18-2021/01/24