言語過剰
一例をとろう、たとえば「教会通いをする人」という語を。それは、教会の礼拝式に一応きちんと出席するスミス1・スミス2・スミス3……を指している。注意すべきは、この指すことは「教会通いをする人」の性質については何もいってはいない。それは単に、かれが教会へ行くということを言っているにすぎない。しかし、この語の内在的意味すなわち内包はまったく別物である。「教会通いをする人」は「善いクリスチャン」を暗示し、「善いクリスチャン」は妻と家庭に忠実、子どもたちには親切、商売では正直、生活は節制を守るなど、賞賛すべき性質をそっくり包んで暗示する。これらの暗示は、さらに、二値的考え方により、「教会通いをしない人」はそれらの性質を持っていないことを暗示してしまう。 従って、もし内在的考え方が重症に達すれば、「教会通いをする人」という語の情報的・感化的内包からわれわれは言語的に価値の全体系を作り出すことができる ある語が他の語の意味を「含み」、またその語が、というふうに、自由連想が際限なく続くこの過程は、止めようがない。
内在的考え方はの産物として一種の連想的な「考え方」は循環的思考と呼ばれる、そのわけは、あらゆる結論はすでに最初の語の内包に含まれており、いかに懸命にまた長い間「考え」ようとも、必ず出発点に帰るに決まっているからである。正に出発点を離れることができないとさえ言えよう。もちろん、われわれが事実と直面すれば、たちまちすっかり黙り込んでしまうか、今までとまったく違った方面に出直さなければならなくなる。そこで、ある種の会合や会話では事実を持ち出すのは失礼とされている。事実と持ち出されると、座が白けてしまう。 アンチパターン
言語自家中毒と解毒
解法 > 暗示やほのめかしを止めて、語られたことだけに着目する
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