知覚表象
表象の性質についての従来の仮定、すなわち表象が世界をある程度まで正しく写し取り、安定して私たちの心の中に存在するという仮定は捨て去らねばならない
一度情報を受け取ったらあとは世界と没交渉で(これをオフラインと呼んだりする)表象を作り出すという、表象の作り方についての従来の仮定も相当に疑わしい
知覚表象のうち、視覚表象について
人間が作り出す視覚表象はきわめておおざっぱなものであり、カメラやスキャナで取り込まれるような画像とは大きく異なる
私たちはものを見ている時、それは完全に見えていると信じている。見えているものはあるし、あるものは見える。ないものは見えないし、見えなければ(おそらく)ない。人が何かを見たと言えば、その人が見た場面にそれが確実に存在したということになる。逆に見ていないと言えば、その場面にそれは存在していない。目撃者の証言が法的な判断・決定にきわめて重要な役割を果たすのも、心霊写真が怖いのも、これが理由である。しかし、チェンジ・ブラインドネスは、こうした私たちの常識を根底から覆してしまうのである。
視覚表象が変化を見つける精度が低い理由
限定した注意が向くところを選択してみている
数十秒の画像の呈示にもかかわらず、人間は特定の部分を集中的に見ており、それ以外の部分には全く注意を向けていないことがわかる。これは変化を検出してくださいという課題中のものであることを考えるとさらに驚きである。意識的には、「どこか変化しているはずだ」と考え、画像をくまなく見ている気になっているが、実際にはそうではない
視覚性のワーキングメモリが限定されているからという説明がある。一度にワーキングメモリ内に貯蔵できる視覚情報はどうやら四つくらいしかないと言われている。つまり、いっぱい見てもどうせ保持できないから、限定されたところしか見ていないというわけである。
目の有効解像度範囲が狭い
網膜上の視細胞は、カメラのように均一な構造になっているわけではない。視野全体の範囲はほぼ二〇〇度程度といわれているが、文字などの判別に使われる非常に解像度の高い部分は数度程度でしかない。色がわかる程度の範囲でもせいぜい七〇度程度である。よく見える範囲がこれほど狭いので、人は頻繁に眼球を動かす。こうした眼球の動きはサッケードと呼ばれる。サッケードは〇・〇五秒程度の時間で行われるが、この間とその前後〇・〇一~〇・〇二秒程度は視覚情報の処理が大幅に制限されてしまう。つまり、目の持つ構造、働きによって、得られる情報はそもそもがひどく欠損したものになっているのである。
短期的な寿命の表象を連続的に作っている
この研究を長年行ってきたオリーガンと哲学者のノエ( 23) は、視覚情報処理プロセスが外の世界を前提とし、そことの密な相互作用が視覚表象を生み出しているという考えを提案している。伝統的な考え方では、人は視覚情報を取り込み、それの関係を整理して、見ている場面全体の表象を内部に作り出すとしてきた。しかし、彼らの考え方にしたがえば、視覚情報処理においては、一定の情報を取り込み、部分的な表象だけを作り、あとは必要に応じて外の世界に目を向けて、その時その時に必要な部分の表象を作っているだけなのである。
大学生が書いた馬の絵
同じものを何度も見ているとそれは記憶される。別の言い方をすると、視覚表象が繰り返されることで、それは記憶表象となる。この記憶表象は外界で見たものをそれと認識する時、つまりカテゴリー化を行う際に用いられる。たとえば「馬」を実物で何度も見たことのある人はそれほど多くないだろうが、写真、テレビを通して見ることを繰り返すことで安定した記憶表象となっている。だから、私たちは馬の姿を見た時に、それがサラブレッドであろうが、ポニーであろうが、馬車を引くような馬であろうが、すぐに馬と認識することができる。こうしたことからすると、さぞや精密な馬の記憶表象ができていると考えたくなる。
https://gyazo.com/e9794e01b0ee1e4bdccc1cae6485b730
これは馬の絵である。描いた人たちは幼稚園児ではない、大学生である。そして彼らは「おもしろい馬を描いてください」と言われたわけではなく、「できるだけ写実的に馬の絵を描いてください」と言われていた。これは講義の時にやると、大いにウケる。隣の人の絵を見て大笑いしている人自身の絵も、大差ないものであることが多い。
私たちの洗練された馬認識能力から見て、この絵はどう解釈すればいいのだろうか。むろん絵が下手というのは間違いないのだが、それだけではすまない部分もある。たとえば、絵の中にはたてがみが首だけでなく、背中を超えて、臀部まで伸び、しっぽとつながっているというものがあったりする。もちろんそんな毛深い馬はいない。またこの図の中にもあるが、獅子舞のように見える馬もいる。これは後ろ足の関節の曲がり方が馬としてはあり得ないためであると思われる。つまり、見たことのない要素が写実的な(?)絵の中に入り込んでしまっているのである。
視覚表象、視覚的記憶が貧弱な理由
進化学者であるハンフリーの考え方に従ってこの問題を考えてみたい。彼はナディアの描いた絵を、一万五千年から三万年前にクロマニヨン人によって描かれたとされる、写実的で、躍動的、遠近感のある馬の洞窟画と比較している。彼の『喪失と獲得』に掲載されているクロマニヨン人による馬の群れの洞窟画とナディアの絵との類似性は衝撃的なほどである。ここからハンフリーは、優れた視覚的な記憶の背後には、言語の欠如があると主張している。裏を返せば、私たちの視覚的記憶が驚くほど貧弱なのは、言語を獲得したせいということになる。
https://gyazo.com/a1cf8f090135550beca97c69e71574c0
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出典
論文
O'Regan, J. K., & Noe, A. (2001). What it is like to see: A sensorimotor theory of perceptual experience
参考
人が認識する「連続した世界」は幻であるという調査結果