無名の質
「環境の構造はオーバーラップし相互に作用しあうルールに由来し、ルールは環境の見られるパタン間の関係を表している。そしてまた、それらが適切に適応している場合には、構造の全体的知覚とも一致する」ということであった。構造の全体的知覚とは、空間における特定の質の知覚と同値であったのだ。それが「名づけえぬ質」である。そしてこの質は、現れるときはいつも同じなので、パタン・ランゲージを完成させる作業の「リトマス試験紙」として役に立った。特に、パタンのコレクションの幅を広げることと、パタンを結合して生成力のある構造を作ることを説明するのに役立った。
「私は、この質とかかわりをもつことのできるパタンでなければ見る気がしなくなっていました。相当の数のパタンを調査してきたのですが、そのときにも、質のないパタン、つまりいのちや精神性を生成できそうにもないものは捨てていったのです。」
p97
出典
無名の質
p302
純粋に幾何学的な側面と『時を越えた建築』で名づけえぬ質として述べた、いのちを求め、いのちを与える質と比較対象すれば、この質のほうが完全に地についている。それは、私たちが自身のなかで自由になるときに起きる。たとえば、走っているとき、海で大波を追っているとき、ボートをこいでいるとき、馬に乗っているとき。あるいは踊ったり、謳ったりしているときや、一杯の水を飲みほしたとき、オムレツを食べたり深呼吸した一瞬・いのちの核心にふれるものすべてがそうである。しかし、ある物体がどんなに形自体に美しく心に触れるものをもっていたとしても、あのように文字どおり生気を与え自由な実感をもたらしうるのだろうか。
生活体験では明らかに形と機能は違うものである。しかしそのどちらも、私たちがわれを忘れ、身をゆだねれば、大きな自己存在に直接触れるのである。私たちが泳いだり、走ったり、笑ったりして生き生きとして自我にとりすがる必要がなくなったとき、つまり、私たちの人格や自我にこだわる必要がなくなり自分を忘れ、なすがままにするときにである……。
こういった一体性のあるものをつくるとき、私たちは自己放下をしなければならない。なぜならば、私たちが作っているものにこのような質が宿るのは、私たちが自我から解放され、プロセスの流れに身をまかせ、コントロールも及ばぬより大きな自己存在がひきついでものをつくってくれる場合のみである。
そして、この質をもつものが現れたとき私たちは、自身を貫く光や風のようなものをつくったと感じるだろう。それはまた、それぞれの自我の背後にある偉大な自己との触れあいを感じ、自身の身をまかせ、小さな自己にとりすがるのをやめ、コントロールしようとする気持を捨てさせる。私たちの周囲や目の前のものこそ、より偉大なる自我、自己の総体に由来する。これらはちっぽけに自我から解放し私たちが一部となっているより大きい自己へ触れる手助けをするのである。
この説明は私たちに「一体性」に関する知識にたぶんなにがしかのものをつけ加えるだろう。
なぜならば、自在になり、身をまかせ、ちっぽけな自我から解放し「一体性」に触れるようにしておきさえすれば、自ずとものごとや装飾や建築に判断を下せるようになる。もちろん、これは大変特別なささやきであり、特別な質である。私たちはそれを感じ、わが指針として使うことができるのだ。
2つの露天風呂を比べて
無名の質 2つの露天風呂を比べて
階段と着替え室、浴槽と着替え室、浴槽と川と景色の関係は、まるで申し合わせたように、同一なのです。この関係性の存在が、連続して、まさに物語のように体験できることが、この効果を強めています。 この連続性を、仮にオーダーと名付けてみましょう。
この、オーダーの不思議さは、小さなものから大きなものまでが、自然に結びつけられ、一体化されて体験できるために、心の安らぎを与えたり、安定感を与えるようです。 私たちの安心感や調和感とは、この自然なオーダーと触れ合うときに生まれてくると考えられるようになってきました。
建設される環境のほとんどが、自然の有機的秩序、すなわち、何世紀も前に建設された場所であれば当然のように出現している秩序を持っていないことに、誰もが気付いている。 この自然の有機的秩序は、環境に個々の部分の要求とその全体の要求との間に完璧なる均衡が存在するときに、生じるものです。
心の流れと建物の流れの一致性
ああ、いい露天風呂だなあ」と、しみじみと心に感じるのは、旅館に着いてから、露天風呂に飛び込むまでの経過が大事なのです。長い木の階段、だんだん変化する温度や音、景色のあらゆる個々のディテール、それらすべてが、露天風呂への心の動きと一体化しているのです。
個人的体験としてのソフトと、旅館から露天風呂までのハードが一致しています。このソフトとハードの一致の連続性こそ、有機的秩序なのです。しかし、この秩序は、どうやってつくり出せるのでしょうか? 私たちの現代の町や建物は、明らかにこれを生み出せないようになってしまったようです。