手続き記憶
procedural memory
類義語:手続き的知識
行為、運動に関わる表象である。これは技能とも呼ばれる。歩いたり、自転車に乗ったり、字を書いたり、水泳をしたりなど、私たちはいろいろな運動を行う。こうした運動を支えるのも表象である。
運動表象、手続き的知識がエピソード記憶や意味記憶と大きく異なるのは、言語化の可能性である。手続き的知識はおそろしく言語化しにくい。私たちは何のことなく立ち上がったり、歩いたりすることができる。しかし、「立ち上がり方を忘れたので教えてくれ」という人が仮にいたら何と伝えるだろうか。以前私は講義で学生にこの質問をよくした。すると、たいがいはわからないと答えるのだが、一部の学生は「足に力を入れて踏ん張ります」などと答えてくれる。しかし、ある程度行儀よく座っている状態でどんなに足に力を込めても、どんなに踏ん張ってみても立ち上がることはできない。私たちが立ち上がるときは、足を少しひき、体を前のめりにして、お尻の部分にあった重心を前に移動し、前のめりに倒れそうな不安定な状態にした後に、足に力を入れて(筋を伸縮させて)立ち上がるのである。もちろんこれでも非常におおざっぱな記述ではあるが、このレベルの行為ですら気づいている人はほとんどいないだろう。気づいていないので言語化もそもそもできないのである。
手続き的知識は言語と相性が悪いと言っても、発話は完全に運動である。口、舌、声帯が絶妙な夕イミングとバランスを持って動くことで、発話がなされている。だから木藤さんは最後の段階では話すこともできなくなる。また、言語でも文法的なことがらについての私たちの理解の仕方は、エピソード記憶や概念とは大きく異なり、手続き的な表象とよく似た性質を持っている。
車が来た」と「車は来た」というのは外側から見れば同じ状況を示している。つまり車と発話者の距離がだんだん小さくなっている状況が両者で成立している。だからといってどちらを使ってもよいというわけではなく、その場で適切なものを迷わず選択している。ところが、どんな時が「は」でどんな時は「が」かと言われて、すぐに答えられる人はほとんどいないだろう。つまり、ちゃんと使えるのだが、どうやってそれを使っているかがよくわからないのである。これは立ち上がり方の説明における困難とよく似ている。そういう意味で、文法的なことがらの一部も手続き的に表象されている可能性がある。
*1
また、意図無しに思い出す潜在記憶でもある。
出典
*1, p34
参考