心の落ち着き
成熟した精神は、その反対に、コトバは何についても言いつくせるものではないことを知っており、そこで不確かさに適応する。たとえば、自動車を運転している時、次に何が起こるかはわからない、いかに何度も同じ道を通ろうと、決して二度とまったく同じ交通状況には出会わない。しかし、熟達した運転者はどんな道でも、しかも高速で、恐怖も神経過敏もなしに走る。運転者として、彼は不確かさに適応している。—予期しないパンクや突然の障害に—しかも心に不安は感じていない。
同様に、知的に成熟した人も何についても「すべてを知っている」というわけではない。しかも、このことがかれを不安にしない。それはかれが知っているからだ、人生で唯一の保証とは、内部から来る動的な保証(dynamic security)すなわち、精神の無限の柔軟さからくる保証—無限知の考え方(infinite-valued orientation)からくる保証である、と。
あれこれについて「すべてを知ろう」とすれば、ある問題が「解けない」場合、その責は自分自身が負うほかない。自分にも他人にもいかに言語が働くか、という生きた知識を持っておれば、時間と労力の経済になる。われわれはコトバのどうどうめぐりをしなくて済む。外在的考え方を持っておれば、科学と知恵がすべて免れることのできない不確かさに適応できる。
参照
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粗悪な説明書
だが読んでみると、ごく普通の説明書で、どこといって間違っているところがないので困ってしまう。もちろんそんなことを言うわけにはいかないので、何とか問題になりそうな点を見つけ出すことにする。説明書の善し悪しを言うには、本当はその機械とつき合わせて調べてみなければならないのだが、見ているうちに偶然、図と解説文が一ページ隔てて次のページに来ている部分が目にとまる。これでは絶えずページをめくって、図と解説文を繰り返し照らし合わせなければならない──よくあるお粗末な構成だ。
だがこうした説明書がもたらす弊害のいくつかを指摘しながら、ドウィーズが理解に苦しんだ本当の理由はこの問題ではなかったことに気づく。説明書の展開に円滑さが欠けていたこと、それが彼を混乱させてしまったのだ。彼には一見醜く、グロテスクに見えるものは何でも理解しがたいのである。
一般の工業技術者に共通する粗悪でこま切れの文体が、彼の理解を阻んでしまったのだ。ドウィーズが認めて欲しかったのは、実はその説明書に美的センスが欠けていたことなのである。
>実は家にね、どんな分野の技術解説書にも改善の道を開くとっておきの使用説明書が置いてあるんだけど、それにはまずこう書いてあるんだよ。〝日本製の自転車を組み立てるには心の落ち着きが肝要である〟てね」
心の落ち着き
心の落ち着きというのはうわべだけのことを言っているんじゃない
それは全体にかかわってくる。メインテナンスをよくすれば、心に落ち着きが生まれる。だが逆にメインテナンスを怠れば、心は乱れる。機械がよく動くというのは、心の落ち着きがそこに具現化していることなのだ。メインテナンスをしているときに、もしこの落ち着きを持たなかったならば、おそらくはその間に自分の個人的問題をその機械そのものに取り込んでしまうことになる」
観察の対象となる物、つまりここでは自転車や回転肉焼き器だが、これらには良いも悪いもない。分子は分子以外の何ものでもないし、自転車や回転肉焼き器だって同じことだ。これらには私たちが従うべき道徳的規約など何ひとつない。私たちが機械のテストをするのは、それによって満足が得られるからだ。それ以外にテストの意味はない。機械が私たちの心に落ち着きを生み出せば、それで十分正常な働きをしていることになる。だがもし心を乱せば、異常である。機械か心か、そのいずれかを変えなければならない」
「機械に異常があっても、心が穏やかであったらどういうことになるんだろう?」とドウィーズが訊ねる。
みながドッと笑う。
「それは自己矛盾というものだ。本当に気にしていなかったら、異常にも気づかないだろう。そんな考えは決して出てこないよ。異常だと言うのは、気にかけている証拠だ」
私は続ける。「さらに言えることは、たとえ機械が正常であったとしても、きみの心は穏やかではないということだ。ここで現実に問題になるのはこの点だと思うんだが、この件に関してもしきみが苛立っているとすれば、それが良くない結果を生んでいるんだ。つまり、完全なチェックがすんでいないということだ。工業規格の上では、チェックがすんでいない機械はいかなるものであっても〝未完成〟ということになり、たとえ完全に作動したとしても、それには実用的な価値がまったくない。回転肉焼き器に対するきみの苛立ちもこれとまったく同じだ。きみはここで要求されている心の落ち着きをすっかり失っていた。というのは、おそらくはこの説明書があまりにも複雑で、きみには正確に理解することができなかったからだろう」
「ではこの心の落ち着きを得るにはどうしたらいいのかね?」とドウィーズが訊ねる。
「それにはいま私が説明した以上に、もっと多くの研究をしてみる必要がある。何しろ非常に奥が深い。この回転肉焼き器の使用説明書は、その器械の構造だけの説明に終始しているわけだが、私が考えているやり方はかなり幅が広い。
この手の説明書に腹が立つのは、そこにはたった一つしか組み立て方が記されていないことだ。それでは創造性が失われてしまう。現にこの回転肉焼き器の組み立て方は数多くある。それなのにたった一つの方法だけを押しつけられたのではたまったものじゃない。当然やる気も失せてしまう。第一これがベストだという組み立て方なりを載せている説明書はほとんどないのが実情だ」
テクノロジーが想定するのは、たった一つの無難な方法だけであって、それ以外には何もない。そうなれば当然、きみの回転肉焼き器同様、説明書はその構造のみの解説に終始することになる。しかしかなり多くの組み立て方のなかから一つだけを選択するとすれば、必ずその機械と自分との関係、さらにはこの両者とその外の世界との関係まで考えなければならなくなる。なぜなら多数のなかから一つのものを選ぶという行為は、作業の 技術 であって、機械の優劣がそれを構築する材料によって決まるように、それは人の知的精神に依存しているからだ。だから当然心の落ち着きが必要になる。これは何も現実離れした奇妙な考え方ではない。実際のことだ」と私は話し続ける。「たとえば見習工やへたな職人を見て、誰もが認める優れた熟練工とその表情を比べてみればいい。きっとその違いが分かる。熟練工は決して一つだけの方針に従って仕事を進めたりはしない。その判断は時と場合によってさまざまだ。だからいちいち考えながら仕事をしたりしないし、ひたすら我を忘れて没頭している。動きに無駄がなく、機械との間にある種の調和が漂っている。それに手元にある材料の性質によって、自分の考えや手の動きが決まるので、説明書などまるで眼中にない。この柔軟な対応が、やがては材料の性質まで変えてしまう。材料の性質によってその考えが変わり、その考えによって材料の性質が変わる。この相互変化の過程を経て、やがて立派な構造を持った機械が生まれる。」
「まるで芸術のようだね」と講師が言う。
「そう、芸術なんだよ。芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ。その分離がどこで生じたのかは、かなり昔のことなので一度考古学者の心境に立ち返って考えてみなければならない。遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部門だったのさ。それが何世紀にもわたる紆余曲折を経て、同じ根元から切り離されて、いまではこの両者を関係づけることが妙に感じられるようになってしまったわけだ」
みんな、この話は冗談ではないかといった表情をしている。
「ということは……」とドウィーズが問い返してくる。「この回転肉焼き器を組み立てていたときの私は、彫刻をやっていたことになるのかね?」
「そういうことだ」
ドウィーズはこれを心のなかで繰り返し思いめぐらし、やがて顔がほころんでくる。「それが分かっていれば、苦労はしなかったんだがね」みんながドッと笑い出す。