労働置換技術
AI・デジタル技術はなぜ、経済成長をもたらさないのか
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労働置換と喧伝
経済史家のジェーン・ハンフリーズは次のように説明している。
「一八世紀前半の発明家は、自分たちの発明が人間の労働を不要にするとはまず主張しなかった。おそらく、地元の雇用に悪影響をおよぼすようなことを宣伝するのは得策ではないと考えたのだろう。発明家たちは、むしろ雇用の創出、とくに女性や子供の雇用創出につながることを売り込んだ。これは、女子供の雇用に切り替えれば雇い主にとってコスト負担が減ることを暗に示している。だが時が経つにつれて、人手を不要にすると発明家が主張しても問題ではなくなった。一七九〇年代になると、特許権保有者は何の遠慮もなく、繊維、金属、皮革、農業、醸造、とにかく何であれ、労働置換型の発明であることを堂々と売り込むようになる。もっとも、労働者が全員不要になるわけではなく、駆逐されるのは主に成年の熟練労働者だった。発明の多くは、腕力や技能の必要性を減らすから未熟練の女子供でも熟練職人の代わりになる、ということが売りだったのである。ジョン・ワイアットが自分たちの発明を擁護するために持ち出した言い分は巧妙だ。ワイアットはまず、法的権利の乏しい女性や子供の雇用を創出すると謳った。さらに、一〇〇人を雇用する事業者はそのうち最高の技能を持つ者三〇人をクビにして子供か障害者一〇人に切り替えられるので、利益が三五%増える。その一方で、教区は貧民の救済をしなくて済むようになるので五ポンドの節約になる、云々。とは言え熟練職人が女子供で置き換えられてしまうことこそ、新技術に対する抵抗の最大の理由だったから、やはり労働置換技術であることを謳うのは勇気がいったにちがいない。そう考えると、公表された以上に労働置換型の発明は多かっただろう(14)」
では、紡績機は実際にどの程度労働者の節約を実現したのだろうか。この点はさかんに議論されてきた。労働コストが削減されたこと、手で紡いでいた労働者が不要になったことはまちがいない。たとえばジェニー紡績機を導入すると、労働が資本に置き換えられるだけでなく、賃金の高い熟練労働者が子供に置き換えられた。アークライトが南部のピーク地方に工場を建設したのも、同地の子供の数が多いことに気づいていたからだろう。なにしろ初期の紡績機は、子供が機械の下にもぐり込んで糸くず掃除をするように設計されていたのである(くわしくは第5章で取り上げる)。当時の辛口の評論家アンドリュー・ユアは、「機械を改良する目的と言えば、成人男性の仕事を女子供に置き換えてコスト削減を図ることだった」と述べている(15)。
言うまでもなく紡績機のメリットは、高賃金労働者を機械と低賃金労働者に置き換えることだけにあるわけではない。子供の割合が増えるにつれて、工場の労務管理を強化できるというメリットもあった。子供たちはみな貧しく、見習いという位置づけで、親元から遠く離れた工場で働かされる。子供が労働力の大半を占めるようになった工場も珍しくなかった。そうなると、大人の場合であれば単に仲間が存在するだけで権利の防波堤の役を果たしたのに、子供ではそれが期待できない。子供たちはしばしば賃金すら払われなかった。法律の保護が得られないのをいいことに、児童労働者の管理にあたって工場監督や職長たちはアメではなくムチばかり使った。大人に比べ子供の労働者は交渉力をほとんど持ち合わせていないため、工場の無慈悲な規則を押しつけるのはいとも簡単だったにちがいない(16)。ハンフリーズが指摘するとおり、「熟練職人を相手にするときに踏まなければならない手順を省略して抵抗を棍棒で押さえ込めるようにする」プロセスの発明には多大なメリットがあった(17)。
時代の空気を捉えた小説を得意とするチャールズ・ディケンズやエリザベス・ギャスケルなどの作家は、機械化に対する労働者の怨嗟の声を作品に反映させている。ギャスケルの『メアリ・バートン』(一八四八年)は、一八三九~四二年のマンチェスターが舞台である。議会の公聴会に呼ばれた登場人物の一人は、こう証言する。「最後に申し上げたいことがあります。機械を破壊した連中に祝福があらんことを。ジェニー紡績機が登場して以来、いいことなど一つもありませんでした。機械は、貧しい人々を破滅させただけです(23)」。
産業革命最大の悲劇のヒーローは機織り職人である。一八四六年生まれのウォルター・フリーアの自伝には「自分の生まれる前には機織り職人は労働者階級の貴族だった」と書かれている(36)。しかし機械化の大行進の前に、手紡ぎ職人と同じく機織り職人の技術も何の価値もなくなってしまう。職人の賃金を調べたロバート・アレンは、自動織機の普及は貧困を蔓延させたと指摘する。賃金格差が急拡大しただけでなく、機織り職人がもらえる賃金は最低生活賃金の水準まで落ち込んだ(37)。機織り職人のケースは、広くイングランド問題の状態を浮き彫りにしたと言えよう。産業革命期を生きた六〇〇人の自伝を調べたハンフリーズの独創的な研究には、手工業の消滅に伴う個人の悲劇が克明に描かれている(38)。そこに書かれている物語は、アレンの調査結果と相通じる。「産業革命期の生活水準の低下は、家内工業制の破壊の結果にほかならない(39)」。機織り職人の詳細な調査を行ったダンカン・ビッセルも、自動織機は「経済史上最大の余剰人員の解雇すなわちテクノロジー失業を生んだ」と指摘する(40)。一八一六年にはマンチェスター都市圏内のストックポートで、機織り職人の失業率は六〇%に達した。ランカシャー州ダーウェンでは二六年に同六九%を記録し、グラスゴーでは機織り職人五〇〇〇人が職を失い、八四%の手動織機が文字通り無用の長物となっている(41)。
仕事の簡単化