『守破離の思想』
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道の思想
4世紀に入来
五世紀に入来
覚性へ至る過程のこと
鎌倉時代に入来
道のつくもの
茶道、華道、書道、棋道、歌道、画道、芸道、武道、神道、仏道、禅道、武士道、商人道、任侠道。 武道十道
剣道、槍道、弓道、薙刀道、居合道、銃剣道、合気道、相撲道、空手道、柔道
術のままになったもの
抜刀術、短剣術、手離剣術、鎖鎌術、水術、忍術、馬術、柔術、杖術、棒術
これらの諸術は、現代人の実生活と縁が薄くなったため、職業芸や趣味芸としての価値と魅力を失い、加えて学校体育からの分野からも外され、それにともなって稽古者がいなくなったので、「術」から「道」へと発展させるためのバネ仕掛けを作れなくなってしまったのである。稽古人口の多い剣道や柔道の場合も、明治中期頃までは、剣術・柔術と呼ぶのが普通であった。
芸人
手持ちの芸を客に売って生活する人達のことである。
武術は人殺しの腕を磨くことから始まったものだが、芸能の方は河原乞食の売芸から始まった賤民芸である。近頃は武道文化とか、芸能文化という美称を冠してはいるものの、そのルーツを知っている人達の胸の中には、殺人技・賤民芸としての残滓がこびりついているので、いまでも芝居見物の客席で酒を飲んだり、弁当を食べたりするのは、至極当たり前の庶民娯楽の一つとなっている。これらの人達は芸を買って楽しむためにやってきたのだから、酒を飲んだり、弁当を使ったり、演技の出来映えに声援を送る行為も、切手代の中にちゃんと含まれている感情なのだ。従って、芝居見物客のマナーやエチケットの乱れを嘆く人は、芝居の本質を知らぬ人となるのである。
「偽物は、いかに本物に似せようとも、偽物である」と行ったのはパスカルだが、もともと見物客は偽物と承知のうえで切符を買ったり、招待されたりして、見物席に座っているのである。それ故に偽物の演技が本物らしく見えるときは、箸を止め、杯を置き、一心に舞台を凝視しつつ、悲しさが胸に迫るときは泣き、面白さが頂点に達するときは笑うのである。
能
神と乞食の芸術
武道
武士階級の生活の中に禅が入りこみ、武術修行の頂点が死生一如の境地にまで高められると、剣を捨て、人を斬ることを止め、無刀不敗の人になってしまうので、これもまた売芸一般の中にいれることはできない。人を殺すための技術が人格を錬成陶冶するための修行に変化してしまえば、その腕前を衆人の目に晒す必要が無くなり、修行の大半が道場稽古に集中され、専門家の面前で行う公式試合とか、模範演武を披露する以外は、他流試合で己の腕を確かめる程度のものとなる。稽古修行の目的が覚性を目指すための心技体の練磨に絞られてくれば、もはや「道」と呼ぶ以外に呼びようがなくなってくる。
茶道
茶道の場合も、武士階級の教養の一つに
弓道と禅
日本弓のもつ独自の構造とその材質(竹)の張力を解説すると共に、弦を一杯に引き絞ることは、その中に一切のものが包摂されていることを意味するものであるから、正しい引き方を習得することが最も重要な課題となる。
弓を引くに当たっては、腕と肩の力を抜き、両手だけにその仕事を任せるようにしなければならない。決して筋肉を強めるような力を使ってはならない。精神的な引きの第一歩は、それから始まることを充分に納得させる。
阿波研造は、弓道における呼吸法の重要性を示すため、自ら強い弓を引き絞り、その腕の筋肉をさわるよう命じた。阿波師範の筋肉には全く力が入っていなかった。
弓を引くに当っては、他の事を一切考えず、ただ呼吸に集中しなければならない。呼吸は結合し接合する。呼気はあらゆる制限を克服することによって、解放され完成する。
正しい射が、正しい瞬間に起こらないのは、射手が自分自身から離れていないためである。
正しい弓の道には、一片の目的も、一節の意図もあってはならない。
正しい射は、時の熟するのを待つ他はなく、そのためには、自己に打ち込み、師匠の模倣に徹しなければならない。
模倣に徹し、模倣を完全に身に付けたとき、はじめて解法が実感される。
模倣からの解法が実感されたとき、体奥から霊感や独創が湧いてくる。
模倣の完全な継承は、名人の魂を分有することを意味する。
ヘリゲル博士が、阿波師範のいう守破離の第一段階である「守」の道を学び続けた結果、どうにか腕に力を入れず、専ら精神で弓を引くことができるようになったとき、弓を引き絞った後、拇指の上にかけた指を注意深く徐々に伸ばすと、矢が自然に引き離されることを発見した。矢が電光のように弦を放れ、笹に積もった雪が自然に落ちていく感覚を体得したのである。そこで、ヘリゲル博士は、阿波師範の面前で、自分の発見した要領を用いて、第一矢を放ったところ、これを見た阿波師範は、「どうぞ、もう一度……」と促したので、早速第二矢を放った。第二矢は、第一矢のそれよりも、更にうまくいったように思われたので、内心にいくらか誇るものを感じていた。ところが、阿波師範はヘリゲル博士の側に進み寄り、無言のまま、その弓を取りあげ、悲しみの表情を背に写しながら、静かに立ち去っていったのである。そして、その翌日には、ヘリゲル博士の保証人となっている小町谷操三教授を通して、今後の指導を断る旨の通告が伝えられた。仰天狼狽したヘリゲル博士は、小町谷教授に対して、小細工と見破られてしまっては、もはや弁明の余地はないけれども、決して阿波師範の目を瞞す意思のなかったことを陳謝し、そこに至った経緯を詳しく説明したうえで、阿波師範へのとりなしを頼む他なかった。小町谷教授の仲介によって、辛くも破門だけは免れたが、再び道場に姿を現わしたヘリゲル博士に対し、阿波師範は少しも咎める様子を見せず、「じっと辛抱して、何がどう現われるかをお待ちなさい」と言っただけであった。弓射の稽古を始めてから、すでに四年目に入っていたけれども、まだ「守」」の段階で足踏みしていたのである。人目に器用なことをやって見せても、達人の目を誤魔化すことはできなかったのである。
ヘリゲル博士が、ほんの少しではあるが正射ほ誇る顔付をしたとき、阿波師範は、「貴方は、一体何を考えているのですか……」と問いただし、「すでに悪い射に腹を立ててはならぬことを知っているでしょう。こんどは、それに善い射を喜ばぬことを付け足しなさい。快と不快の間を右往左往することから離脱せねばなりません」
ある日、ヘリゲル博士が極限に近い正射を出したと体感したとき、これを見た阿波師範は、「今や貴方は、ソレが射る、ソレが当てるという事が、何を意味するものであるかをおわかりになりましたか?」との問いを発した。この問いに対して、ヘリゲル博士は、
「私は、もはや全く何も理解ように思います。あまりにも単純な事なので、それがかえって私を惑わせています。一体弓を引くのは私でしょうか? それとも、私を一杯に引き絞るのは弓でしょうか? 的に当てるのは私でしょうか。それとも、的が私に当たるのでしょうか? ソレは、肉眼には精神的であり、心眼には肉体的なのでしょうか? その両者なのでしょうか? それとも、どちらでもないのでしょうか? 弓と矢と的と私が、お互に内面的に絡み合っているので、もはや、これを分離することができません。いや、それを分離しようとする要求すら消え去っているのです。私の射は、一切があまりにも明瞭で、かつ一義的であり、滑稽なほど単純になってしまうのです……」と応えると、阿波師範は、次の言葉を強く遮った後、「今や正しく、弓の弦が貴方の肺腑を貫き通りました」と申し渡したのである。
阿波師範は、ヘリゲル博士に対し、術なき弓術の本質について、「弓と矢を持たず、標的の真ん中に当てる人であってこそ、始めて言葉の最高の意味における名人なのです。術なき術、術なき術そのもの、この転回点までくると、弓射は運動なき運動、舞なき舞として、禅の中へ移っていくのです」と語っている。
p138
p194
日本剣術の頂点
「榊原先生が、ちょっと本気になると、恐怖感が全身を貫き、こちらの体が思う様に動かなくなってしまう……」と述懐している。このことは、山岡鉄舟の高弟・佐野治三郎が決死の思いで、鉄舟師範へ斬り込んでいった瞬間、「何んとも得たいの知れぬ不思議な力に圧倒され、アッという間に道場の床板にヒックリ返されていた。真に不思議でたまらぬ……」と述懐している事実と同じ性質のものであろう。このようにして「離」の域に達した人は、剣を人殺しに使わなくても、相手を畏怖・畏服させることができるのである。日本剣術の頂点が、「無刀流」と化すのは、相手を殺すために鍛錬した剣が、相手を生かすための剣になってしまうところにある。