守破離
諸説
守破離は、離に至ったと思って邁進したら、それも守の範疇だったと気付いてようやく「破」に踏み出せるようになる話
弟子(初心者)が思う破や離は、自分が初めてだと思っているけど、大抵は師が既に検証し終わっていて、それに弟子が気付いて師から教わった基本を学び直す。これも守の範疇
スキルに関する自己創発システムをどのように成長させていくかの、メンターと自己認知の話
だから、ほとんどの人は守破離の守を終えることもない。そんなに簡単に守破離ができたら、『名人』がいたるところにいるでしょってことになる
正確に言えば、守の過程で師が弟子の学びを奪ってしまった。
守破離の守は型を学ぶといわれるが、これは古典の守破離にとっては一側面にすぎない。
守は2つの学びがある
・型の捨て方を学ぶこと
・型の学び方を学ぶこと
ベストキッドの新旧での修行の始まりは下記の通り
・旧 目的を伝えずに、ただペンキ塗り、ワックス掛けの繰り返し
・新 目的を伝えずに、ただ上着を掛けて、脱ぎ、捨ての繰り返し
ところが弟子は何のためにやるかも分からず、焦ってしまう。師から離れようとする。師は引き止めて今までの方法は空手の効果的なトレーニング方法であったことを身をもって体験させる。
ここが師が守を自ら破ってしまったところだ。弟子が自らの発見によって空手の学び方を体得することを師が奪ってしまった。弟子を信じきることができなかった。
古典守破離は、何を学ぶか、何から学ぶか
一見無意味な日常の動作のひとつひとつが、達人への過程にむけて示唆に富んでいることに、弟子は自ら目を開くことを学ばなければならない。
つまり今までの日常を何気なく過ごすという自然体という型の捨て方を自らの発見によって学び、今までの日常のひとつひとつが上達へのかけがえのない機会であるという型を自らの発見によって学ぶことだ。
ベストキッド作中の弟子は師から直接知らされることで効率よく短期間に上達した。ところが「型の捨て方を学ぶこと」「型の学び方を学ぶこと」も学べなかった。破にいくことは叶わなくなってしまった。ベストキッドで師とされている二人は、作中では自分自身を人生の脱落者のように自己評価している。空手は強いが師ではない。
守は以下の二つの学びから何を体得させようとしているのだろう。
・型の捨て方を学ぶこと
・型の学び方を学ぶこと
二つの中心にあるものは創意工夫だ。創意工夫とは、行き詰まりからうまく脱する能力だ。捨て方と学び方に自在になる能力だ。
ここまでをまとめると
・守の修行とは、行き詰まりに衝突し、もがく過程で、行き詰まりからうまく脱する能力「創意工夫」を得ること
・師の役目は、弟子に行き詰まりに向き合わせること
行き詰まらせることの習得
けれど師は常に行き詰まりを弟子に提供できるわけではない。
だから師は、本当の師は自分ではないことを弟子に理解させなければならない。
本当の師は日常である。
仏教の修行の多くが無意味なことをさせているように思えるが、これらは行き詰まらせる修行である。ただ目的無くやれといわれてさせられる早朝の掃除、座禅の修行など。これらは投げ出したくなる日常であり、足下の挫折だ。
日常で学ぶ「日に数度、心が武から離れる」 出典:刃牙道
要領よく学びたいという自分のこだわり、つまり思考の型をもっていると、目的もなくやらされる生活的行為は簡単に行き詰まる。人には自分の生活環境によって身につけた癖や仕草、考え、信念がある。これらは自己流という型だ。型を捨てなければならない。
さらに師は弟子に対して、師という権威に挑戦させなければならない。守破離の元の一つとなった道教では、師の権威にひれ伏そうとする弟子をからかう。本当の師ではないものを師と崇めようとする未熟者だからだ。
これも弟子にとって行き詰まる。師のいいつけさえ守れば学べるという打算的な思考の型を捨てるのは難しい。始めるに当たっての動機のひとつだからだ。師にとっても難しい。自分を疑わせることだからだ。
まとめ
・師の教えだけを守ることは守ではない。初めに弟子の頭から捨て去らなければならない思考の型である。
・師は弟子に信じられてもよいが、信仰されてはならない。
・師は自分が教えられないことを弟子が自ら学べるように目を開かせるために、弟子が自ら発見でき可能性を信じなければならない。
よくあげられる守破離との比較
・守は教えられたことを守ること
・破は創意工夫すること
・離は生み出すことができること
上記は古典守破離ではすべて守の範疇になるように私は考える。
知識を増やすことでも、できることを増やすことでもない。新しいことをやるわけでもない。
守破離は拡張ではなく悩み抜くことで本質の探究する。
極意!!クオリティ!!
古典守破離は非効率だ。では現代の守破離とはいったい何か。私は効果的な教育の言い換えだと思う。学習科学でいう「真性な実践(authentic practice)」だと思う。
学習科学の基礎となる中心的なテーマの1つは、ある領域の専門家と類似した学習活動に取り組むことで生徒はより深い知識を学ぶ、ということである。この真性な実践(authentic practice)は、近年米国で出された多くの教育スタンダードの基本原理とされている。たとえば歴史科においては、出来事の年月日や順序を記憶することではなく、歴史的な探求をすることによって歴史を学ぶことが求められている。すなわち、一次資料を調べ、歴史学者のように歴史的な分析や議論の方法を用いるのである(National Center for History in the School, 1996)。
古典守破離を他の作品で感じてみる
カンフーパンダは守破離の守としてうまく表した作品だと思う。
ウーグウェイ導師(亀)=>弟子を信じているし、自ら発見することを辛抱強く待ち続ける。
シーフー老師(レッサーパンダ)=>弟子を信じていないし、亀の師に恭順してしまっている。作品を通して弟子を信じることを学ぶ。
パンダ=>要領よくカンフーを学ぼうとして失敗するも、自分の食欲という日常にカンフーを師より見出され、龍の巻物(鏡)に映った自分の姿から、カンフーの極意を得る。
ベストキッドの師は師ではなかったかもしれないが、弟子とともに修行することで救われ、成長するという点で、カンフーパンダのシーフー老師(レッサーパンダ)に近い存在かなと思う。
ハンターハンターではゴンとキルアの師匠にウイングがなったが、彼もベストキッドの師と同じように焦りから直接教えてしまった。ハンターハンターの世界では指導した弟子ががシングルハンターとなったとき、ダブルハンターになれる。ウイングはシングルハンターで、ハンターを育てった経験が無かった。
道教、仏教、禅、守破離(利休)、守破離(川上不白)、現代の守破離のメタファー元関係性は調べ切れていないけれど、ひとまずここまで。