『リフレクティング・プロセス』
副題:会話における会話と会話
https://gyazo.com/99875c8a04687bcef3bfd6ef7f7e8b96
目次
序文 鈴木浩二
序説 トム・アンデルセン
まえがき ジャーゲン・ハーゲンズ
第Ⅰ部 リフレクティング・チーム
1.リフレクティング・チームの背景と歴史
2.基本的概念と実践の構造
3.実践のための指針
第Ⅱ部 対話についての対話
4.マイクとある問題についてのさまざまな定義
5.旅立ち,見送り,置き去りについての話─リフレクティングによる4つの話し合い─
第Ⅲ部 さらなるリフレクションズ
epilogue1.本書の終わりは新たな始まり
epilogue2.‘The Reflecting Team’に対する2年後のリフレクション
epilogue3.1994年,6年後の本書との再会
----
序文 鈴木浩二
序説 トム・アンデルセン
まえがき ジャーゲン・ハーゲンズ
第Ⅰ部 リフレクティング・チーム
1.リフレクティング・チームの背景と歴史
p25
行き詰まったシステムと、ゴールよりもゴールへの道
治療のセッションは、それ自体が一つの過程であり、その過程は、行き詰まった過程を繰り返させるものであった。そこで我々は「行き詰まった」システムを治療の過程以上のものであると思わせるのがよいアイデアではないかと考えた。この裏にある考えはゴールは重要であるが最も重要なものであるわけではない——最も重要なのはゴールへの道である——といったような単純なものだった。
人が行き詰まったときとは、望んでいるものを獲得する方法を見つけるのが難しいときとか、面倒なときである。"行き詰まった"人は、"何をすればいいのかわからない"といわれる。その方法をみつけるために相談しにこられた人たちにとって、ゴールに至る新しい道やもっと新しい多くの道を見つけようと努力する我々の試みが役に立つのだろうか?
最初のリフレクティングプロセス
我々は、我々の部屋にあるマイクと家族面接室内のスピーカーとがつながっていたことを思い出した。面接室のドアをノックし、しばらくの間我々の意見を聞きたいかどうかを尋ねる決心をするのに1分とかからなかった。家族の話し合いに役立つかもしれないいくつかのアイデアを我々がもっていることを家族に我々のひとりが話した。彼は「皆さんに関心がおありでしたら」といい、さらに「御家族も、先生も、皆さん、この部屋のその椅子に座ったままでいて結構です。この部屋の明かりを暗くすることができる設備が整っているので、私たちの部屋の明かりをつけます。そうしたら、皆さんは私たちを見ることができ、私たちにはもう皆さんを見ることはできません。また、音声も切り替え可能で、切り替えたら私たちの声が聞こえるようになり、私たちには皆さんの声は聞こえなくなります」と伝えた。
我々の1人が発信したしどろもどろな言葉——忍耐力と強さについての発言——によって沈黙は破られた。続いてもう一人が同じことを別の言葉で発信した。ある者は冷酷な運命とのあらゆる闘いがあきらかに家族がもっていたと思われるいまだ試みたことのない多くの可能性を奪っているのだろうというアイデアを持ち出した。もしこの可能性が試みられたとしたらどんなことが起こっていたか、ということについて、我々は時間をかけて話し合った。
裏の部屋の明かりをつけ音声を切り替えたとき、我々にはすべて——腹を立てててる人から退屈している人まで——を受け入れる準備ができていた。
我々が見たところ、4人の人は非常に静かで思慮深い人たちで、少し間をおいてからお互いに微笑を浮かべ、楽観的な話をし始めた。
それはいつもの話し合いとはかなり違うように感じた。家族との関係は"いつもの"やり方で面接している家族とはずいぶん違うものになっていた。
ここで我々はベイトソン Bateson の有名な文章「差異を作り出す差異(the difference the makes a difference)」の重要性を確かに体験した。 明かりと音声の切り替えは我々と家族の関係を驚くほど自由にした。われわれはもはや責任をもつ側にあるだけではなく、2つの側面の片側に(すぎなく)なったのである。
この新しい方式はリフレクティング・チームとして知られるようになった。
2.基本的概念と実践の構造
p30
ベイトソンと差異、および差異を生み出す差異
ベイトソン(16972, 1978, 1979)は、我々が物事をそれ自体としてみないことに注意を喚起した。我々はある物事をその背景とは異なるものとして見てしまう。我々はある人の"肖像画"をその人の背景とはまったく別のものとして描いてしまう。肖像画には背景と人の両方が含まれている。人間そのものは自分が見ていることとは異なる観点から、自分の背景を眺めたり記述したりする。人は自分が見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、味わったりすることができる違った観点から、自分の背景を知るのであろう。
背景にはさまざまな鋭い感覚に利用できる内在的な差異がある。あるものの周囲との違いをはっきりさせることをベイトソンは「区別を作り出すこと(the making of a distinction)」と呼んでいる。つけることのできる区別にはいろいろなものがある。たった1つの感覚でつけられる全ての区別を考えてみていただきたい。それから、5つの感覚を使って何ができるかをゆっくり考えていただきたい!
有効な差異にはいろいろなものがあり、それらのすべてに目を向けるのは不可能である。これは、2人以上またはそれ以上の人の間のやりとりの際に生じるように、その背景が常に変化している時には確かにそうである。
人が見ているよりも、見るべきものの方が常に多いということである。
ベイトソン「情報の基本的な単位は差異を生み出す差異である」(1972, p472)
最後の文章にある"生み出す"という動詞は、生み出される差異が時間外の差異によって作られるという考えを導き出す。ベイトソンは時間外のこの差異を変化であると述べている。
つまり、ベイトソンの差異という言葉の使用には2つの異なる意味がある。1つめは、その背景とは異なるはっきりした何かがあるということ、2つめは、ある変化が差異によってもたらされた、時間外の差異であるということ。これらの考えは臨床活動の重要な基礎となっている。
ブローハンセンと差異の3つの変形p32
息を吸って吐いて吸ってといった、進行中の呼吸のサイクルは、たとえ視覚的には読み取れないとしても、身体じゅうのあらゆる筋肉の付随運動と一致している。
言い換えるならば、吸い込んだ空気はもっとも離れた指先やつま先まで「ゆきわたる」わけである。種々な理由から筋肉が収縮するようになると、それは吸い込んだ空気が身体のその部分を通過するのを妨げる。他の例でも、胸全体が張するようになると空気の流れは様だけられたりする。そうしたことが起こるのは諸種の理由から、人が表現しにくい時である。情動と言葉は息を吐いた後に来るものである。
ときどき人は、自分がどんなことを言っても周囲が歓迎してくれないということを経験する。そうした相手の反応を止めさせる一つの方法は呼吸の仕方を制限することである。また息を吐き出すのを制止する方法の一つは、息を吸い込む行為を制限することである。呼吸のノルウェー語はinspirationであ。いくらか緊張した状況は、その人に周囲からのインスピレーションを軽減させると、文字どおりに言えるであろう。
呼吸運動を制限する方法の一つは、収縮機能を有する身体の筋肉を使うことである。それらは、首、ひじ、肩、でんぶ、胴の前側、ひざなどの屈筋である。これらの屈筋運動の増加はその動きが制限されるようになるように、同時に、胸に作用するであろう。
ファイティングポーズで話してみよう。
いつもと異なる un-usual
人はいつも同じ状況に置かれたままでいると、同じ状態に留まりやすい。何かいつもと異なる状況に出くわしたならば、その状況は変化を引き起こす可能性がある。出くわす新しい状況がいつもとあまりに違い過ぎると、人は刺激されないように殻に閉じこもってしまう。それゆえ、援助者であると思われている我々が努力しなければならないことは、我々が参加している人々との会話では、いつもとは違っていても違いすぎない何かを提供することである。これは我々が出くわす状況、会話が包含するテーマや争点、会話の進み方や形式を構成するルールである。
自分自身であること
我々は、早晩ある瞬間、人はあるがままの自分にはかろうじてなりうるというように理解している。ある状況に対して人間は自分のレパートリーの中にある方法のひとつでしか反応できないということを意味している。しかし、このレパートリーは時がたつにつれて、かなり古い方法は消えうせ、新しい方法がうまれることによって変化するかもしれない。
もし、ある状況がレパートリーの不足から反応できない人に混乱(障害という人もいる)をもたらすとしたら、その人は2つの方法のうち、1つの方法でしか反応し得ない。その障害から影響されないようにするにことで自分自身を守るか、それともマツラナとバレラの言葉を借用すれば、その人が代表する組織を維持するしかない。臨床的な言い方をすれば、それは自己の完全な状態を維持するということであろう。さもなければ、その人が代表する組織にそのような未知の不安が入り込むのを許すと、その人は総合力を失ってしまう。この総合力を失わせる障害は、その人のレパートリーに関する限りあまりにも異なりすぎていたといってもよかろう。
他者への関係づけ
言語的難点
ことばが発せられたとき、それは話し手からそれを受け取る聞き手へと伝えられる。その言葉は両者にとってある意味をもってはいるが、両者の持っている意味は同じなのだろうか。我々は異なっている可能性を考慮すべきである。
事実、まさにこの点に困難性がある。というのは、書き手としての私は「意味(meaning)」という単語(今ここにかかれているような)が、この書かれた単語の読み手であるあなた方と同じ意味を私が意味しているかどうかを問わなければならないからである。私が他の言葉を使って私の意味を明確にしようとしても、その新しい言葉が私と読者にとって違う意味を有するものであることがありうるという点では問題は依然として存在するわけである。
本書での基本的な用語は、考え(idea)、記述(discription)、説明(explanation)、意味(meaning)、理解(understanding)である。これらの用語に対する私の理解について検討してみよう。
私は考えを何かのひらめきと思っている。それは記述のひらめきでもありうるし、説明のひらめき、意味のひらめき、あるいは他の何かのひらめきでもありうる。記述はもっとしっかりした「映像」として理解されることもある。この「映像」は動画と考えられるべきであろう。映像には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして身体の"内部"からの感覚(,いわゆる自己受容体の刺激)に対応する全ての性質が含まれる。
説明は、「映像」の理解の仕方と考えられる。意味には記述と説明が含まれてはいるが、それだけではない。それは、記述と説明がその人にとって一定の意味を持っているということを伝えている。この意味は、ある種の行為によって記述され説明される「ものごと」に対するその人の関わり方の基本となる。理解という言葉の内容は意味に近いものとなる。本書では定義を記述+説明であると見ている。それゆえ、意味は定義以上のものである——それは定義に定義付けする人の個人的要素をプラスしたものである。
人間の行動や相互作用を記述し、説明する行為p38
ある人が他の人を記述する時はいつでも、その人も観察システムの一部である。言い換えると、記述される可能性のあることやその時々の観察や記述に利用できるものは、その人の属する観察システムによって決定されるのである。観察者や記述される人は記述者との関係についての理解の程度に応じてその言動を制限する。しかし、利用できるようになるものは、人がそのすべてに注意を払うことができないほど細部にわたって豊富である。注意を払うものを選ばなければならない。それによってあるものは焦点が当てられ、あるものは無視される。ベイトソンとマツラナの言い方をすれば、この注意の焦点付けは「区別づけ(making a disrinction)」といわれるものである。 区別づけは、記述する人の好意である。しかもこの行為は記述者の関心、知識、背景などと明らかに関係がある。ここでの主なポイントは、同じ状況にある2人の異なる記述者がおそらく異なる区別をするところから、異なる記述が生み出され、必然的にその記述に対する異なる説明がもたらされるということである。
記憶にとどめてほしい重要な点は、記述に関するあらゆる行為には、多くの可能な区別がなされていないところから、多くの別の記述の可能性が無視されているということである。それとともに、対話中に区別する主な方法は質問することであるということも覚えておくべきである。それは実際に次のような質問をすることになろう。「私がうかがわなかった質問を全部していたとしたら、私の記述はどうなっていたでしょう?」
我々が理解したように、マツラナとバレラはこの過程の種々の段階を、指名する(names=動詞)、知る(knowing=記述と説明に相当する)、行う(acting=動詞)段階と呼んでいる。
この行為の一部分は目を開け閉めするといった感覚器官をとりまく器官の行為であった。これについて論じるために、私は感じる(sending)という言葉を紹介したいと思う。これは3つの段階——感じる、知る、行う、をカバーしている。私がマツラナとバレラの書物を読んで魅了されたのは、彼らがsensing-knowing-actingを一貫性のある完全な1つの体系としていることである。この体系は2つの必要条件、(1)その組織の管理と、その人の無傷の状態、と、(2)周囲との相互作用に関与しているという条件を、満たす。
マツラナとバレナ
普遍性(Universum)と(客観性(Objectivity))というよりも 多様性(Multiversa)p40
構造化された知覚
人はそれぞれ、自分が「属している」状況を知覚している(我々はそれを構造化された知覚と呼んでいる)。この知覚はその人の「現実」である。おなじ状況にある別の人もまた「現実」を知覚しているが、その「現実」はその人特有の「現実」である。「現実」は知覚する人の「現実」としてのみ存在するのである。同じ「外的」状況は多数の「現実」となる可能性がある。他よりよいといえる「現実」はない。それらは全て等しく「実在するもの」である。
2つの相互作用的対話の諸過程p42
円環的対話から楕円的対話へ
関係するということは、感じる(sensing)、知る(knowing)、行う(acting)ことから成り立っている。
https://gyazo.com/442a95e4b76434b37e84611cbac3ea31
1つの円と考えられる進行中の「内的」過程を示している。この「内的」過程は、部分的には個人の保全の維持をつかさどるが、また感じたり、知ったり、行ったりする行為を拡張するための基盤としても働く。
この拡張に必要な条件は、この「内的」過程と、次の図に示されているような他者との関わりをもつ際に滋養汁やりとりからなる進行中の「外的」過程との結びつきである。これからすると、2人の人が出くわしたとき、2つの「内的」過程とひとつの「外的」過程が並行して起こっているといえるであろう。
https://gyazo.com/3ffe09ee7babe85a9056a4aae0bb4c7b
リフレクティング・プロセスにおける対話の定義
この出会いが対話だとすると、例えば、治療者とクライエントは「談話治療」(talking care)の間中会話しているが、同時に3つの並行する会話——2つの「内的」対話(inner talk)と1つの「外的」対話(outer talk)——が進行していると考えることが重要であろう。「内的」対話は少なくとも2つの目的、やりとりされた考えを扱うことと、「外的」対話にその人を参加させるようにすることに役立つと思える。 内的対話の構成要素
自問
外的対話が意図する内容は何か
どうすれば外的対話をよりうまく行えるか
内的対話の働き
自分らしさを損なわずにいること
新しい有用な見通し(記述と説明)をもてるようになる
対話の流れのはやさ
我々は「談話治療」に加わるとき、おそらく常に次のようなことを自問しなければならないであろう。私が行っているこの人との対話は、その人と私がそれぞれ十分な時間をかけて「内的」対話をすることができるぐらいゆっくりしたものであるのか?
つま先笑い、制御された笑い
赤ん坊は笑うときに全身を揺り動かす。笑うという動作は全身に行き渡り、つま先にさえ及ぶ。つま先が笑うのである。
子どもが大きくなって歩き始めるにつれて、直立姿勢はつま先が笑うという動きをする可能性を制限してしまう。子どもがもっと大きくなると、より適切な笑い方を教えられるようになる。そして、思春期になると笑わないことがあることや、微笑みさえ少なくなることがあるということを、学ぶようになるかもしれない。
ここで指摘したいことは、読者を含む我々はみんな、笑いの動作をつま先に伝え、さらにつま先を動かすことのできる潜在能力をまだ持ち合わせているということである。ただし、この可能性は、時が経つにつれて、習慣やしきたりなどが導入されることで制限されがちである。
我々にはまたこの笑いの動作をさらに大きく制限する可能性がある。周囲に不愉快な人がいると、すでに目に達していた微笑みは唇のところで止まることになる。この残された微笑みや笑いはそのままの状態におかれ、激発するまで眠っているか、待っているかしている。
では、どのようにしたらそのような激発を可能にするような和解を成立させることができるだろうか。言葉や質問がそのような状況を作り出すのはまれなことではない。好ましい環境はあらゆる可能な笑いを自由に表現させ、つま先の笑いさえも自由化するかもしれない。
会話によるやりとり
我々がとても多く接してきたテキサスのガルベストン家族研究所のハロルド・グーリシャンHarold Goolishianは、いつも次のように言っている、「あなた方が傾聴しなければならないのは、あれらが実際に言っていることであり、彼らが実際に意味していることではない」と。 呼吸
呼吸をメタファーとして用いることによって、我々は相手のスピードと、相手の聞いたり、考えたり、話したりすることによる切り替えに合わせなければならないということを自覚するようになった。もしそうでなければ会話は息切れしてしまう。
我々が話していることのうち何がもっとも有用か?
自分自身が「行き詰まった」状況にあると思っている人にとって最も役に立つことは何だろうか? 我々は説明と助言をすることができる。そういった人々に我々の解釈と助言を受け入れるべきだと言うことさえできる。それを受け入れるように人々を説得したり、強要したり、脅したりすることさえありうる。これは会話が重要な部分であるといった関係にとっては危険な手段である。
助言と解釈は人々にとっては見知らぬ不安の原因になりやすい。もし人が自分の蓄えてきたものが何の反応も示さないために何かを"取り入れるならば、統合不全がおこるだろう。そうならないようにするひとつの方法は関係性に終止符をうつことである。我々はミラノ派の質問法と質問法に関するペンの論文(1982, 1985)と質問法に関するハロルド・グーリシャンとハーレーン・アンダーソンHarlene Andersonの相対的論議に大きく影響され、質問だけを用いるのが安全だということに気づいた。そのルールには一定の例外がある。そのルールには一定の例外がある、すなわち、それは我々が話し相手に、助言をしなかったり解釈を与えなかったりしたら、その人にとって異例すぎる場合である。 2つの答え(「はい」「いいえ」)以上の応答の可能性を生じせしめる、適度の異例な質問は次の質問の糸口となることが多い。我々は基本的には我々の寄与することが質問、特にふつうはあまり使わないような質問をすることにあると考えている。それは多くの答えを引き出す可能性を与え、次に新しい質問を生み出すこともありうる。
我々の傾聴と志向、いずれが最も有用であるのか?
とっかかり(opening)p49
あたたび私はハロルド・グーリシャンが繰り返し言ってきた、「彼らが本当に言っていることを聞きなさい!」という言葉を引用したい。彼らが言っていることには話して欲しいことへの誘いが含まれていることは確かである。我々は、彼らがちょうど口にしたことと強い結びつきのあるもの——換言すれば、彼らが我々にもっと多く話すように要請した話題について——話しを続けたいと思う。 彼らが話しをするとき、私は彼らが用いる言葉を、声の調子や言葉の後に続く身体の動きと同じように考え、そして、私が聞いたすべての事柄のうちどれについてもっと話しをした方がよいのかを自問自答する。この最も重要な部分を我々は「とっかかり(opening)」と呼んでいる。私は「どのとっかかりを私の質問と関係づけるか、例えば、言葉の意味をもっとはっきりさせるべきか、それとも、その文脈を象徴している歴史や周囲の状況を尋ねるべきか、それとも、その状況に生じている行動に変化が起きたとしたら何が起こるかと尋ねるべきだろうか」と自問自答する。
私は彼らに質問をしながら、同時に自分にも問い掛ける。「私に変わったところがなさすぎることを示すサインが彼らから読み取れるだろうか、私が適度に変わっていることを示すサインがあるだろうか、私が極端に変わっているサインがあるだろうか?」。私はまた「この会話のスピードはどうだろうか、会話のリズムはどうだろうか?」と問いかけをするのも好きである。
また、私は自らに問い掛ける、「この会話には私自身に話す準備のできていないテーマが含まれていないだろうか? この会話は私に準備ができていない形をとっていないだろうか? どのようにその状況が記述され、説明されなければならないかという私自身の考えにとらわれ始めていないだろうか? その状況がどのように解決されなければならないかという意味を話題にしてさえいないだろうか?」
やりとりp50
古い認識論はシステムが問題を生み出すことを暗示し、新しい認識論は問題がシステムを生み出すことを暗示している。問題とは、本来の苦悩(original distress)が成り立っているあらゆるものと、さらに苦悩に固執させるようにしてきたこの世を通じて多くなりつつあるあらゆる悩みのたねである。あなた方はあるいまいましい抜き差しならなくなった事柄や安っぽい人のことを考えるべきである。問題は苦悩によって生み出された意味システムであり、治療の単位はその意味システムに寄与している全ての人である。これにはクライエントがドアを開けて入るやいなや、その治療にあたっている専門家も包含される。この見方は最近ハーレーン・アンダーソンとハロルド・グーリシャン(Anderson, Goolishian & winderman, 1986)が、問題志向システム(problem-oriented system)に関する議論のなかで指示してきたものである。グーリシャン(私信, 1985)はまた、個人とか、夫婦とか、家族とかに分けて処遇する治療法が広く強調されていることに反対する例をあげている。彼の言い分は、社会的単位に基づいた枠組みを用いる限り、我々は直線的志向の罠にはまってしまうということである。もしそれが組織であるとしたら、その組織は機能不全となりうるであろう。組織が機能不全であるならば、その組織は病理を含んでいる。たとえ病理を含んでいようと、我々は前進しそれを癒すことができるだろう。これは我々が古い認識論や、固定させる人と固定されている人とに分ける二分法に戻るのを必然的に不可能にした。 こうした考えは我々の考え方に強い衝撃を与えた。我々は問題を生み出すシステムを多くの人たちが見られる舞台であるとみている。それぞれは人は問題に対応する1つの説明をもっており、問題の個々の記述に執着する傾向があるため、解決されうる方法についてもその人なりの1つの意味をごく当然のように持ち合わせているものである。
関わり合っている人がそれぞれ他者とは幾分異なる意味をもっているときに、会話中にその意味の交換が行われているならば、新しい意味が出現してくるであろう。会話が存在しなければ、そうした意味はそのまま留まることになるだろう。それぞれの人がもっている意味があまりにも違いすぎると会話はよく中断してしまう。もし威信が関係づけられたりすると、人は自分の意味により一掃固守するようになるだろう。そのような状況では、人は他者の意味に耳を傾けるかわりに、他者の意味に関するその人なりの意味に耳を傾けがちである。
このような理解は、我々が意味を表現するのを避けるひとつの理由である。もし表現をさけるならば、我々は似たような意味を持っている人と簡単に同盟を結ぶようになり、必然的に別の意見やまったく異なる意見を持つ人と対立することになるだろう。
組織としての意味システムp52
マツラナとバレラ(Maturana&Varela, 1987)は意味システムを用いる際に組織の概念を強調している。
意味システムはある状況で何かを行うという考えのもとに集まってきた人々の集団であると考えられる。
トロムソの我々は組織体を次のような一定のレンズを通して眺めたいと思っている。人々がお互いに話し合えるという点からすると、この組織体のさまざまな下位に存在するもの(sub-entity)は何か。言い換えるならば、人々が問題や彼らが生み出した行き詰まったシステムに関するさまざまな考えを交換しあうことができるという点からみて、さまざまな下位ユニットはどのように構成されているのか?
我々は、多くの治療者がまもなくある時点で考えを交換し合えない人たちのグループと会話したがるという感じを抱いている。それゆえ、我々が見出したその取り扱いにとても十四な質問の一つは、「まもなく、この時点で、誰がどのような方法でこの問題について誰に話すことができるのですか?」である。これは我々が誰とも話しができないということではない。それは、我々がそういうときにどういう問題についてどのグループ分けを経験すべきかという問題にかかわりをもっている人々と論じ合わなければならないということである。
多角的理解(multiversa)は、ひとつの同じ現象、例えばある問題が幾通りにも記述され、理解されることがあることを意味している。ひとはいずれもある状況に関する自分なりの解釈を創り出すという構成主義的な考え方は、行き詰まったシステムに遭遇したときに非常に役に立つものである(Bateson, 1972, 1978, 1979,; Maturana, 1978; Maturana & bVarela, 1987; Segal, 1986; von Foester, 1979; von Glasersfeld, 1988)。どの解釈も正しいわけでも間違っているわけでもない。我々の課題は、さまざまな人がどのように自分の記述や説明を作り出しているかを理解するために、できる限り多く対話するように心がけることである。それから、我々は彼らがいまだかつてみたことがない別の記述があるかどうか、まだ考えたこともない別の説明があるかどうかを論じる対話へと導くようにする。ある意味で、我々は、人生の過程には見たことのないものや考えたことのないものが常に存在するということを認めさせながら、その考えについて交換し合う流れにのっている我々の仲間入りをするように彼らを促しているのである。
換言するならば、すでに描かれているものの他にも、描くための多くの別の特徴が常に存在するということである。新しい特徴を描く際に我々にとってもっとも有用な道具はまだ要求していない質問である。適度に変わった質問は行き詰まったシステムに最も寄与するものである。
自分で問題状況を規定しておきながら、そこにじっとしている自分自身を発見した人は繰り返し繰り返し同じ質問を自分自身に投げかけるのに慣れている。我々がこの規定された問題に対する新しい理解を生み出す過程に寄与するとき、我々は彼らとの会話中に変わった質問をするほかに、どのようにしたら彼らのそれぞれが新しい質問をしはじめる可能性を生み出すことができるだろうか?と問うてみる。言い換えれば、それは、どのようにしたら、我々が話しかけている相手が自分自身に新しい問いかけをしはじめる可能性を作り出せるかということである。
リフレクティング・チーム p54
現在、我々は、リフレクティング・チームの構造は我々の意見を求める人たちがチームの意見をきくように、新しい質問を自らに行い、それによって新しい際を描き出す可能性を提供するものであると考えている。
行き詰まったシステムは、それが1人であろうとひとり以上の人、例えば、一家族とその援助システムであろうと、我々のうちのだれかによって面接が行われる。これらすべての人は面接システムに属するものである。リフレクティング・チームはワンウェイ・スクリーンの後ろにいることが多く、だいたいは3人で成り立っている。ワンウェイ・スクリーンは必ずしも必要ではないし、チームメンバーもいつも3人であるわけではない。
面接システムは何について話すべきか、どのような方法で行うべきかを自ら規定する自動システムとみなされる。傾聴し、感想を述べるリフレクティング・チームは、面接システムが何について話すべきであるかとか、メンバーがどのように話さなければならないかといったことには決して口をはさまない。
リフレクティング・チームのメンバーはそれぞれ会話にひそかに耳を傾ける。メンバーはお互いに話し合うことをしないで、それぞれ質問の形で自らに話しかける。彼らは自分自身に次のように問いかける、システムが表している状況やテーマはその表された記述の他に、さらにどのように記述することができるだろうか? 示された説明の他に、どのような説明がありうるだろうか?
しばらくして、面接システムの方が望むならば、チームのメンバーは自分達の考えを披露する。その際、チームメンバーは、面接システムのメンバーが聞いているところで提示された論点に関する自分達の考えや質問についてお互いに話し合う。言い換えるならば、各チームメンバーは問題であると限定された不確かな事柄に関するそれぞれの意見を提供するのである。もし、多種多様な意見があまり違わないようであれば、それはお互いの共通意見として役立つであろうし、またチームメンバーが質問という形をとってお互いに話し合うときには、2つないしそれ以上のさまざまな意見がねさらに新たな意見を生み出すのに役立つであろう。
おそらくもっと重要なことは、チームが提供する意見を耳にしたときに、この手続きが面接システムのメンバー(息詰まったシステム+面接官)に内的対話をする可能性を与えるということである。チームが感想を言い終えたとき、面接システムのメンバーはその感想を聞いている間に思いついた考えについてお互いに話し合いをする。ある意味では、彼らは面接システムの最初の会話に対するリフレクティング・チームの会話について話しをするわけである。
大抵の場合、面接者は質問をしたり、意見や忠告をしたりするのは差し控える。チームもまた、それぞれのチームメンバーが持っている意見は主観的な者であり、基本的な考えからすると、そこにはどんな客観的なものも、最終的なものも存在しないことを強調するために、観想的なリフレクションを提供するだけである。 この点で、我々は自分達自身を共時的な対話は不可能であるという、マツラナの格言と一致するとみている。我々にできるのは、共通の関心事をわかちあい突きあわせる機会を提供することだけだが、考えのやりとりはそれに続く。それゆえ、我々は共通の関心事(mutual interest)の重要性を強調したいと思う。
区別する質問をめぐって次のような好奇心が生じる。例えば、可能であっても馴染みの薄い質問ばかりしたとしたら会話はどうなるだろうか。そのとき何がわかるだろうか。そうした別のみたこともない記述をもとにいったいどんな説明がなされる可能性があるのだろうか。
我々がやってきたあらゆる選択的会話の内容を考えることによって、私は私自身の好奇心がますます強まるのがわかる。
ビデオテープの再生は、こうした質問の扱い方に関するいくつかの可能性を提供してくれる。少なくとも使ったことのない質問をしたらどんなことになるかを想像することができる。我々はしばしばビデオテープを再生し、面接者が行った質問のひとつを聞いて止める。そして他の質問の可能性について議論する。10とか15とか20以上の別の質問を提案するのも決して難しくはない。我々はまた、用いなかった面接開始の場面のところで中断し、この開始時からどんな質問が考えられるかを論ずる。
対話が我々の好奇心をそそるようであれば、我々は有用な貢献者たりうるわけである。人生のどこでもそうであるように、好奇心は発展を促す主要な貢献者である。
3.実践のための指針
膠着システムを維持するのは誰か
治療者が2人以上のチームである場合に提案できること
治療者が2人以上のチームの場合の初回面接
治療者がたった1人の場合の初回面接で提案できること
主要な疑問
誰が何を質問され、誰が聞き役となるのか?
話し合うべき問題点
一語一語
とっかかり(opening)
とっかかりとは家族の意味体系の表出である。それは、アイデア、言葉による合図、テーマ、ちっょとした振る舞いなど、さまざまな表現形式に見出される。形式はどうであろうと、それは特定の家族がその思考パターンや行動や、彼らが集合的に表す意味の組みあわせを系統化する方法に、ぎざぎざとか「とっかかり(opening)」のように作用する。例えば、父親が「うちの娘はひどい甘ったれです」と言ったとしよう。この甘ったれというアイデアは1つのとっかかりであり、それはこの家族にとって重大な意味を帯びた言葉であるし、また不平はふつう問題の人物に向けられるが、このとっかかりはシステム全体に向けられている状況を見えなくしている。
私はこのようなとっかかりを、対話を続けるための誘いとみなしたいと考えている。
話がどう帰結するのかは最後まで待たなければ分からないがゆえに、その対話がたどるであろう道筋をあらかじめ知ることは不可能である。我々にできることは一語一語進むことだけである。
観察システムが対話の方向を選ぶ
我々と話しをする人たちはたちてい我々からの質問に答え始めるその瞬間から一息つくまでの間に多くのとっかかりを示すことが多い。そのため、実際には一つ以上の新しい会話の方向に関与していきたいという誘惑にかられるが、面接者が選ぶのは1度に1つだけである。どれをえらぶかは面接者の自由である。選ぶ理由を完全に説明することはできない。我々はどのとっかかりがその後の対話にもっとも役立つかという自らの直感に導かれて選択している、と信じることにしている。
より多くの、願わくば新しいとっかかりを生みだす質問
変わった質問
質問のマインドセット 観察と理解を聞く
あらゆる質問は次のような極めて重要なアイデア、すなわち、人々が関わっているのは「外部の」問題点ではなく、その問題点に関する彼らの理解である、というアイデアに基づいている。
この極めて重要な一分から論理的に導かれるものは、我々にはその問題を叙述することも説明することもできないが、彼らの叙述と説明とをただ叙述し、(彼らの叙述と説明に関する)我々の叙述に試験的な説明を与えることしかできないということである。それゆえ、「それはなんでしたか?」「それはどうでしたか?」と質問する代わりに、「何を見たんですか?」「何を体験なさったのですか?」「何だと思われましたか?」「どう理解されましたか?」などと質問するのである。言い換えると、人は問題状況では、問題に関する彼らの理解に従って動くのである。
叙述に関する質問
大切なのは、二倍の叙述を生み出す質問をすることである。この二倍の叙述は、事象に遠近感を与える。このような質問はあらゆる種類の差異から成り立っている。それらには次のような言葉が含まれる。
〜との比較
「その頃と比べて今はいかがですか?」(時間/変化に関する差異)
「それを一番好きだったのはどなたですか?」「一番関心をもっておられたのはどなたですか?」(事象を関係性の一部として叙述すること)
「どのお孫さんとお会いになったらおじいさんは一番喜ばれますか?」(関係性の比較)
「どなたが何をなさったのですか?」「何が一番役に立ちましたか?」(試みられた解決策の比較)
〜との関連性
「どんな状況だったのですか?」「どなたが一番巻き込まれておられるのですか?」「巻き込まれていないのは(出席者のうちの)どなたですか?」
〜との違い
「それが始まったのはいつからですか?」「さらに悪くなったのはいつからですか?」「それが少なくなったのはいつからですか?」(特定の時点における前後での差異)
説明に関する質問
「それはどうしたら分かりますか?」
「それはどうしてその時点で起こったのでしょうね?」
さまざまな話し合いに関する質問
もう一つの叙述と説明
コミュニケーションを支配する浸透的な規則——誰が何を言ってよいかという規則——を破壊するものである。未来はしばしば暗示されるが「設定された」ものではないため、誰も文脈上堅苦しい規則に拘束されること泣く、別のパターンを想像することができる。
「私はあなたがそれらをこういう順序でなさっていることに気づきました。もしその順序をこれこれこのように変えられたとしたら、どのようなことが起こるでしょうか?」(変化の可能性の導入と試行)
「私はそれをなさるのがいつも彼/彼女だということに気づきました。もし彼/彼女がしばらく留守をしなければならなくなったら、誰が代わりにそれをなさるでしょうか?」「もしそのやり方でなく、こういうやり方をなさっていたらどんな問題が起こっていたでしょう?」(ジレンマの導入:別な解決策は別な問題を引き起こす)
「誰かがそのことを話し始めるとしたら、それは誰でしょうか?」「あなたはあるジレンマについてお話しになりましたが、それについて話し合える方はいらっしゃいませんでしたか?」「おられたとしたらそれは友人かご親類か、あるいは今では故人となられたかつて親しかったお方でしょうか?」「いつ話しだされたのでしょうね?」「何から話されるのが一番自然でしたでしょうか?」「どのように話しだされたのでしょう? 手紙ですか? 電話ですか、それともお墓参りでいす?」
未来に関する仮説的質問がすべて拒否されるようならば、自分が決めた未来とあらかじめ決められている未来とのずれについて話し合うのもよい。
「それはどの程度まで決まっているのですか?」「それは運命とか権力とかによってあらかじめ定められているのですか?」「それは永遠に変わらないのですか?」「変化することがあるとしたら、一番可能性があるのはいつですか?」「変化が起こらないとしたら、そのことを最も確信しているのはどなたですか?」「それを受け入れるのに一番時間がかかるのはどなたですか?」
包括的質問(cover-question)
「より多くの叙述と説明を探すためにはこの問題について誰が誰に話すことができるでしょうか?」
聞き手の位置p72
いろいろな形のリフレクティング・チーム
聞き役としてのリフレクティング・チーム
交代p75
リフレクション
リフレクティング・チームが話したことについて面接システムが話しをする
交代の回数
面接の最後の部分
フォローアップ
我々の失敗の最大の原因は?
提示についてのいくつかのアイデアp82
第一次サイバネティクス/第二次サイバネティクスの特徴の比較
その「事態」(例、病気)にはなにか実体があると見なされる。/その「事態」(例、病気)は変遷する文脈の一部および関係のあるものと見なされる。
専門家はその「事態」(例、病気)に働きかける(治療)/専門家はその「事態」(例、病気)についてのその人物の理解に対して働きかける
ある人物がその「事態」(例、病気)をあるがままに見出す。その「事態」には1つの選択肢しかない。/ある人物はその『事態」がいかなるものであるかという理解を生み出す。これは多くの可能な選択肢の1つでしかない。
個人の変化は外部から命令できる。それゆえにそれは予見できる。/個人の変化は内部から自然に起こってくるのであり、それがいつどのようにどんなかたちで起こってくるのかは知りえない。
ひとりでに出現することと解き放つこと
第Ⅱ部 対話についての対話
4.マイクとある問題についてのさまざまな定義
5.旅立ち,見送り,置き去りについての話─リフレクティングによる4つの話し合い─
第Ⅲ部 さらなるリフレクションズ
epilogue1.本書の終わりは新たな始まり
epilogue2.‘The Reflecting Team’に対する2年後のリフレクション
用語の見直し
もし今日この本を書いたとしたら、やはり「説明する」とか「説明」という用語は、「理解する(understand)」とか「理解(understanding)」という用語に置き換わっていたことであろう。
強調したかったこと
会話を進める4つの主要な質問
ひと一つ目の質問は「どのようにこの面接を役立てたいですか?」である。どのように、何をという二つのことを含んだこの質問は、状況に応じて別の言い方にもなりうる。例えば、「どのようになさるか何かご計画でもおありですか?」とか、「どうしたらよいとお考えですか?」などと。
2つ目は、「どのようにして今日ここへおいでになろうというお気持ちになられたのですか?」である。この質問も、例えば次のように言い換えることもできよう。「最初にそのことを思いついたのはどなたですか?」「他の方々はどのようにしてそのことをお知りになったのですか?」「それに対して、どう思われたのでしょうか?」この質問の裏にある考えは、ここに来た人たちが、来たことにどれだけ関与しているのかを知るということである。私はここにきていることにためらいを覚えている人たちには黙って座っていてもらい、より積極的に来た人たちとの会話を聞いてもらうようにする傾向がある。「このセッションをどのように役立てたいですか?」という質問を投げかけられた人の答えは慎重に記憶に留める。それは、それらの答えがその面接の大きな枠組みを提供するからである。
3つ目の質問は、時に私が自分自身に対してのみ発するものであるが、オープンに質問するということもありうる。それは、「この問題について、この時点で、さしあたって誰が誰とどんなふうに話すことができる(話さなければならない)のだろうか?」という質問である。そこにいる誰もが、他の誰とでも、また話をしている間に出てくる可能性のあるどんな事柄についてでも話し合えて当然であると考えてはならない。それゆえ、新しい話題が持ち出されたときには、「そのことについて、どれくらい話し合わせましたか?」と聞いてみるのが賢明かもしれません。もし話し合いが初めてという場合ならば、誰が誰と、どんなふうに話し合ったらよいでしょうかと質問するのが適切であろう。
4つ目の質問は、自分自身に対してのみ向けられるものである。すなわち、「話し合っていることとその話し合い方は、適切な差異を保てているのか、それとも違い過ぎているのだろうか?」というような質問である。私たちの会話の相手は違和感を感じたとき、何かサインを出すはずである。面接中にそのサインになるべく早く気づくように努めるべきである。
発展させておきたかったこと
付け加えておきたかったこと
epilogue3.1994年,6年後の本書との再会 p137 1994年に加えられた
新たなる実践
本書のはじめのところで指摘しようとしたことは、リフレクティング・プロセスが、一般的に言えば内的語らいと外的語らいの間を、行きつ戻りつすることであり、いろいろな面で応用可能であるということである。外的語らいとは他者との語らいであり、内的語らいとは自分自身との語らいである。
時が経つにつれて、直感的に正しいと感じられるようになったのは、個々のクライエントが、話したいと思うことを、彼なりの話し方で、話したいだけ話すことができるような機会を与えられるべきであるということである。さまざまなクライエントの、さまざまなモノローグを聞いていて興味深いと思えたことは、さえぎられないモノローグが、内と外の会話の交替から成り立っているように見えることである。内的語らい、(相手に対する)話を中止し、「ポーズ」のように考えられる間ができたときに起こっている。しかし、これはポーズなどではない。つまりちょうどその時、クライエントは「引きこもって」いるか、「どこか別の場所に移動して」いるか、「誰か他の人に会って」いるかしているのである。
クライエントの視線がさまよい、どこか違うところを見つめている時にそのことがわかる。私の想像するところでは、クライエントは「ポーズ」の間中、捜しているか、立ち止まって何かをどこかで「休めて」いるか、意味を探し求めているようである。次に「ポーズ」の後、やおら視線をそこにいる相手に向け直して、外的な語らいが続けられる。それゆえ、語らいは話されること、聞かれることに加えて、見られるものから成り立っている。
聞くことはまた見ることでもある
新たなる質問
そこにいる聴き手が、多くのことを耳にし、目にするかなりゆっくりした会話は、話し手が話をしたり(発話)することを通して、自分自身を表現するよい方法を探しているといことを理解する機会を与えてくれた。epilogue2でも述べたように、この探索は語りたいことを騙るのに最もふさわしい言葉、リズム、テンポなどの探求から成り立っている。よくみられることだが、妨げられずに話す機会を与えられた人は、あたかも最初の試みが不十分であったかのように、あちこちで何度も話を止めてはまた話しだしたりする。
治療者が治療的会話に寄与しているかどうかを調べる共同研究者としてのクライエントp144
さらなる理解か、それともそれに変わる理解か?
モダニズム
1) 人間に関する真の(客観的な、ただしい)知識をとらえることは、可能である(その意味するところは、この知識は一般かすることができ、いずれはあらゆる人が、いつでも、どのような文脈においても、利用することができるようになるということである)。
2) 人間は、基本的な「内なる核心」(真の知識を捉えることができる)によって機能している。 3) 言語は、考えていること(「内なる核心」から生じた)を表現する道具である。
4) 言語は、疑う余地のない正確なものであるはずであり、情報の伝達に使用されている。
工学技術と自然科学に大いに啓発されて、人はそれらが物事を動きのない自然の一部と理解するのと同じような方法で人間を理解しようとするようになった。つまり、外的な兆候(発話や行動)を客観的に査定することで、「根底にあるもの」(「内なる核心」)を映し出し、説明することができると考えるようになってきているのである。
どのようにして真の知識をとらえることができるか(方法)をしっていて、しかもとらえたものの真偽を見分けることができる知識をもっている(規範を知っている)専門家が必要である。その方法と規範を保護し、より完全なものにしていくために専門家の組織(collegium)が設立された。
専門家と非専門家といったヒエラルキーが形成されるのは当然なことである。これは私には、近代の特徴のようにみえる。ヒエラルキーという言葉は、ギリシャ語のHieros(聖なるもの)とArchein(操る、治める)から成り立っている。つまり、上からの統制である。
ヒエラルキーの枠内では、人は援助者と被援助者、統治者と被統治者、観察者と被観察者、管理者と被管理者なととなった。
ここで述べた人の分割は、人をその機能の面だけでなく、特権に関しても区別する。いま述べた知の文化(モダニズム)は、経済的、物質的諸条件が、自立し、自身を持った人となることをよしとするだけでなく、自立心と自信を絶えず拡張する経済的、物質的生活の前提条件となった西洋文化の時代に発達したと主張するのが一般できである(Samson, 1981)。
私は、不平等に分配された特権が、恵まれない人々の間に苦しみをもたらしやすく、かつまたそれ(苦しみ)が恨みを晴らしたい気持ちを生み出しやすいことから、ヒエラルキーの文化を危険であると考えている。また、もしそれ(苦しみと遺恨)が抑えつけられたならば、さらに苦しみは増大し、暴力にさえ発展するかもしれない。
モダニズムに変わる文化p149
1) 人間の生活に対する、固定化した普遍化しうる説明(例えば、人格障害という診断)にとって代わるものは、人間は絶えず変化し続け、その一方(誰もが知っているように)、変化してやまないさまざまな状況に適応しているということである。それゆえ、人はその時その時の状況によって理解されることもありうるわけである。人間に関するこのような理解は、多面的な現実、すなわち同一人物がいろいろに理解されることがあるという概念によく適合している。人は、時間とともに変化する環境に対してだけではなく、理解しようとする他者に対しても変化する(別の話し方、行動の仕方をする)。理解しようとする人たちもまた、彼らが見聞きするものを通して変化していく。もし、今理解していると思っている人が、(前に聴いたり聞かされたりしたこと以外の)別のことを耳にしたり、(前に探したり見たりしたことは)異なる何かを見つけたりしたら、その理解はもちろん違ったものになるであろう。
2) 人が「内なる核心」に「統治」されているという考えにとって代わる仮説は、その人がその中枢にいるのではなく、その人の中枢はその人の外側、他者との集合体の中にあるというものである。「内なる核心」が個人や集合体を形作るのではなく、集合体が個人や「内なる核心」を形作るのである。それはこの「内なる核心」なるものがあったとすればの話ではあるが(Shotter, 1993)。集合体において重要なのはそこにある会話であり、会話にとって重要なのは会話の参加者たちの内にある言語である。 3) 言語に関する代わりうる仮説は、言語は情報を伝えているだけではなく、形作ってもいるということである。多くの人たちはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが言ったこと、すなわち我々がその内にある言語は、我々が理解できるようになる可能性を与える一方、限界を与えてもいるという発言に勇気づけられている(Grayling)。 形成(form) p151
自分自身を表出する人は、自分を表出することによって、自分自身の人生と(いくつかの)自己を形成(form)するということである。すべての人は常に何らかの種類の活動、すなわち常に自分を表現する活動をしているところから、ずれの人も絶えず形成される過程、すなわち自己を変容(trans-form)させたり、変革(re-form)したり、順応(con-form)させたりする過程にある。ジョン・ショッターによると、自己形成の本質的な部分は、そばにいる(その人の発言を見聞きしている)人との関係における「自分の位置を決めること」である(Shotter, 1993)。 論文
Shotter, J. (1993). Cultural politics of everyday life: Social constructionism, rhetoric and knowing of the third kind. University of Toronto Press.
4) 言葉は聞かれ、話され、紙に書かれるものであるといった仮説に代わるのは、言葉が他のいくつかの言葉を暗示しているにすぎないとするものである。この仮説を力説しているのは、フランスの哲学者ジャック・デリダ Jacques Derrida である(Samson, 1989)。言葉には、他のいろいろな言葉との類似と差異の点で意味がある。例えば、暗いという語は、我々がすぐに灰色や白を思いうかべることで意味を作り出す。デリダ派、言葉は他の言葉と関係はあるが、「そこにある」ものとは関係がないと書いている。その(我々が話している)「そこにある」ものに対する特定の印象や、「心象」や、それについての考え方などは、我々がそれを記述するために選んだ言葉によって形作られるものなのである。 1920年代のウイーン学壇は、自然科学を代表し、明瞭な言語の仕様に占有されており、比喩的な言語は避けるべきであると考えていた(Polkinghorne, 1983)。この意見には、過去30年、40年間多くの人によって意義が申し立てられたが、その皮切りとなったのは、比喩的でない話し方はできないということである(lakoff et al., 1980; Johnson, 1990)。いらゆる言葉(メタファー)はみな曖昧であり、他の諸所の言葉(他のいろいろのメタファー)
と関係している。それゆえ、あらゆる言葉には微妙なニュアンスがあるかもしれないし、ニュアンスを持たせることによってさらにニュアンスを持たせることになるかもしれない。