なぜ義務論を支持しているのか
#倫理 #思考実験 #思考の癖
自分は道徳についていわゆる帰結主義(結果の善し悪しが大事)をあまり支持しておらず、義務論(意志の良し悪しが大事)のほうが道德の定義として良いと考えている
なぜかというと、帰結主義を前提にすると、道德が能力になってしまうと思っているからだ
自分以外にこれを言ってる人をあまり見たことがないが、言ってる哲学者などがいたら教えて欲しい
cf: #人格もまた能力の一種である #人格と能力について
これは次のように言い換えることができる
もし行為がもたらす結果の良さが道徳的であることの必要条件なのだとすると、世の中には「道徳的能力」というものが存在し、それを持たない人は(いわば能力不足によって!)善人にはなれない、という世界観になると思っているからだ
「善い人」というものは存在せず、「善い行為が上手い人」だけが存在することになる
ここでいう「道徳的能力」とは、道徳的に良い結果を生み出すのが上手い、というしかたで表現される能力のことである
#哲学的能力主義
そもそも「善人」という概念自体が義務論的世界観の産物とも言えるかもしれない(?)ので、純粋に帰結主義な世界観においてはこの意味での「善人」が存在しないのは当然とも言えるかもしれない
それでも、私は「善人」の概念を説明するのに使えない「道德」の概念には欠陥があると考えている
なぜなら、この意味での帰結主義においては「善い人」と「有能な人」の区別がなくなってしまうからだ
生活上のあらゆる困りが機械によって自動的に解決される世界があったとして、そのような世界には道德が必要ないかもしれないが、善人か悪人かの区別は残るだろうか?
ただ、このような主張は論点先取という批判もあるだろう
「義務論を前提にした概念が定義できないので義務論じゃないとダメです」は無意味な主張という批判は確かに可能そうである
そうではなく、帰結主義を前提にしたうえで「善人」概念が可能であると言うならそれを知りたくはある
私は善人の定義には意志が含まれるので、義務論を用いずに「善人」概念を扱うのは不可能と考えている
私は自分の直観として、善い結果を引き起こした人を見たときに、その結果を以て道徳的に善いという評価をしていない気がする
#人間が道徳的に褒められるタイミングはほとんどない
たとえば、溺れている人を助ける人を見たとき、その人が(あるいは行為が)道徳的に善いかどうかは「助けようとした時点ですでに決まっている」と感じる
溺れた人を助けられたかどうかで証明されるのは「その人が優秀かどうか」だけであって、その人が善良かどうかではない、という感覚を持っている
「人を助ける能力の優秀さ(スキル)を道徳的に褒める意味がわからない」と自分は感じる
もちろん道徳的でない観点で褒めるのは全く構わない(スペックが高いねとか、訓練をして偉いとか)
これと同じ理由により、たとえば「災害救助を行うロボットは道徳的に善い」といった議論にも納得がいかない
定義上、ロボットには能力以外の評価軸が存在しないので、能力(性能)以外のものは褒めようがないと感じる
合目的的な存在には能力しか存在しない、ロボットは合目的的である、ゆえに…(証明終了)
がんばって能力以外の評価軸を想像しようとしても、たぶん造形の美しさとかそういうのしか出ないと思われる #美
また、一般的には悪いこと(たとえば不倫)が善い行為だったかは「その後の人生の帰結で決まる」というタイプの議論にも納得行ったことがない
もちろんそれで人生が好転する可能性はあるし、そのことを祝福しても別に構わないのだが、やはりそれと善悪の話は関係がないと感じる
#「清純派」の芸能人には何が期待されているのか
不倫によって人生が好転したかで証明されるのは「その人が賭けに勝ったかどうか」だけであって、その人が善良かどうかではない、という感覚を持っている
「なぜ賭けに勝った人間の優秀さなんぞを道徳的に褒めなければならないのだろう?(意味がわからなくないか?)」という感情が生じてしまう
運の良さを祝福したり、その人が賭けに勝つために使った頭の回転の速さを褒めるのは別に構わないのだが、やっぱりそれは道徳的な褒めとは何も関係がないと思ってしまう
不倫が道徳的に善い行為になるためには、「一般に不倫は悪い」という価値観そのものを破壊する(少なくともそのことを目指す)以外の方法では不可能ではないだろうか?
もしかして一般の人の素朴な感覚だと、「(能力を身につけるための)努力をしててえらい」というのは「道徳的なえらさ」だと思われているのか?
私は「努力のえらさ」と「道徳的なえらさ」をかなり異なる概念だと思っているが、そう感じない人が多いということ?
みんなそんなプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を内面化したような考え方をしてるんですか?本当に?
でも日常感覚だと両方とも「意思の問題」として括られがちな感じがする…
意思が「強いかどうか」を日常的には気にすることが多いせいか?
否定文にして、「努力してない人のえらくなさ」を道徳的な悪さと考えることのほうはまだしっくりくる?