人間が道徳的に褒められるタイミングはほとんどない
ほとんどの道徳的な原則(約束を守る、嘘をつかない)は、たとえ守ったところで「それは人として当たり前」としか言われない
いわゆる完全義務
逆に、それよりも一歩進んだ善行(溺れている人を助けるなど)は、実際には心構え云々よりも人を助ける能力の優秀さが褒められているにすぎないように思われる
こちらは不完全義務
これらは能力を必要とするので、うまく行かなかった場合には心がけを褒めることも難しくなる
ダメだった場合に善意よりも見通しの甘さのほうが気になってしまう
よって、他人に善いことを行ったとしても、その心構えや姿勢を直接褒められるケースは人生においてほとんどないように思われる(本当に…?)
……と論理的には思われるが、実際にはいくつも反例が思い浮かぶ
たとえば「老人に席を譲る」とかはその気遣いを直接褒めることが可能に思われる
なぜかというと、それは行為が簡単にできることだから
老人に席を譲るには「人を助ける能力の優秀さ」が必要ない
純粋にそうしようと思うかの意志や勇気だけが問題になる
つまり、人間を純粋に道徳的に褒めることができるには、その行為がかなり簡単に実行できなければならないということになる
簡単な行為でないと意志の問題にならない
ではがんばってはじめて達成できる行為について、能力の優秀さを抜きにその姿勢を褒めることにはどういう意味があるのか?
善意を称賛する習慣がないとみんながやる気をなくすから、とか
プラグマティックにはそうだが、善意を誉めたくなる理由はこれでは説明がつかない