哲学的能力主義
ふつう「能力主義」と言った場合、「能力のある人がより評価されるべきだ」といった価値観を指すものと考えられている
しかし私はこれとは別に、「すべてのものは能力で説明できる」と考える意味での「能力主義」が存在すると思っている
唯物論が「すべての現象は物体の運動で説明できる」と考えるのと同じような意味で、である
これをふつうの能力主義とは区別する意味で「哲学的能力主義」と呼びたい
あるいは「汎能力論」や「唯能力論」と呼んでも良い
哲学的能力主義を持つ人が、たとえば評価制度における能力主義に反対するという状況はふつうにあり得る
「すべてのものは能力である」とは、善悪の判断や気遣いと言ったものを、そうするのが上手いか下手かで判断される指標に還元するような態度を指す
たとえば「コミュニケーション能力」という言葉が成立するということは、世の中のコミュニケーションが気遣いや優しさよりも、実際には諸々のスキル(能力)によって成り立ってることの証拠じゃないかと考える
これは一見、内面や心からの気遣いといったものの重要性を否定し、外に現れている行動だけが本質とする考え( #倫理 における「帰結主義」)に似ているかもしれない しかし、哲学的能力主義者は必ずしも道徳における帰結主義者とは限らない
場合によっては内面を重視するような義務論的主張に同意することもありうる
より過激な能力主義者ならば、「自分の内面を道徳的に向け変えようとすること自体もまた能力の一種だ」というさらに強い主張をするだろう
つまり、道徳的義務に従うのが「上手い人」と「下手な人」がいるという主張をするはずである
こういう文脈で「善いか悪いか」や「意志があるかないか」という基準を持ち出さず、「上手いか下手か」を持ち出したくなるような傾向こそが哲学的能力主義の本質である
意志の問題や好みの問題を能力の問題に変換する(置き換える)力が「制度」である
制度ができることによって、それまで可能だった「敢えて〇〇しない」という選択が難しくなる
本人は「敢えて〇〇しない」と思っているが、外からは「能力がないので〇〇できない」という風に見えるケースは現実世界によくある
この区別をなくそうとする(不可能にする)力がここでいう「制度」である
制度は善悪を優劣に変換する(敢えてやる=悪 の存在がそこでは認められず、優劣の劣と同一視される)
すると、哲学的能力主義はあらゆるものを制度化する、あるいは制度化されていると見なす考えと相関することになる