人格と能力について
我々が他人を非難するときの仕方には大きく分けて2種類ある
その人の思慮や能力の低さを批判するケース
その人の人格や悪意を批判するケース
我々は普段これらの区別を行い,批判に値する人を非難しているのだが,問題はこれら2つの境目と関係性である。
そもそも,人格の問題と能力の問題はどうやって区別されるのだろうか?
運動能力や知能といった問題ならばともかく,思慮については人によっては能力ではなく人格のカテゴリに含めるのではないか
非難と罪悪感には非対称性がある
我々は他者の思慮の不足については能力的に非難する
自分の思慮の不足についてはむしろ道徳的な罪悪感を抱く
なぜ同じカテゴリの問題が,能力的に処理されたり道徳的に処理されたりするのだろうか?
そもそも,能力と人格に境目などあるのか
人格もまた空気を読む能力や言語を扱う能力などに還元されるのであって,それとは独立の人格性自体などは存在しないといえないだろうか
この説は道徳性をそもそも深く内面化していない者にとってしか効果を持たない
ルサンチマンにも「能力的なルサンチマン」と「人格的なルサンチマン」が存在する
前者はいわゆる無力感や嫉妬心に相当する
後者はいわゆる罪悪感や怨恨に相当する
道徳性を深く内面化していない者には能力的なルサンチマンしか存在せず,罪悪感を感じる他者を見てもそれが単なる能力的な意味での無力感にしか見えない
一方,道徳性を深く内面化している者にとっては逆に人格的なルサンチマンが前面に出てきているがゆえに,罪悪感を伴わない単なる無力感であるとか,怨恨を伴わない単なる嫉妬心というものがそもそも理解できない.
たとえばニーチェの唱えた「道徳=ルサンチマン」説は,この文脈でしばしば誤解されている
道徳が嫉妬心であるという説にあまりピンと来ない者は,恐らくこの「嫉妬心」というものを能力的なルサンチマンの次元で受け止めている
そうではなくて,世の中には能力的なルサンチマンの他に人格的なルサンチマンというものが存在しており,しかもそれが道徳にとってのすべての出発点だということが問題なのである
前者の人間と後者の人間では,罪悪感という言葉の意味が全く異なる
前者の人間にとってはとにかく結果を出して償うこと,行動に表れる謝意こそが罪悪感の本質であり,そうすることによって犯した罪はチャラにすることができる
しかし後者の人間にとってはそうではない
彼らはそもそも道徳性を結果ではなく意志の問題であると考えるので,たとえ結果を出して償おうと罪は罪に変わりがないと考える
彼らはむしろ,罪というものをなされた結果に還元することに対して怒りを覚え.プラグマティックな道徳解釈を徹底的に拒絶する
そもそも,道徳が後から償ってチャラに出来るようなものであるならば,なぜ道徳が意志の問題でなければならないのだろうか
償いを許すということは結果主義の考えであって,それは道徳意思説と根本的に矛盾するものではないか.