議論では人は変えられない
犬はコミュニケーションを図るために尻尾を振る。 尻尾をつかんで無理やり振っても、犬を満足させることはできない。それと同様、 誰かの議論を言下に否定しても、その人の考えを変えることはできない。 はるか昔に、 ヒュームはこの問題を次のように述べている。思考は、論争する者がそこから自らの主張を引き出す源泉ではない。よって、感情に訴えかけることのない論理が、 論争する者をしてより確たる原理を受け入れられるよう、いつかは導いてくれるだろうと期待しても、その希望は無駄に終わるだろう。 誰かの考えを変えたいのなら、その人の〈象〉に語りかけなければならない。社会はなぜ左と右にわかれるのか ジョナサン・ハイト・位置1218 したがって、道徳や政治に関して、誰かの考えを変えたければ、 まず 〈象〉 に語りかけるべきである。 直観に反することを信じさせようとしても、 その人は全力でそれを回避しよう (あなたの論拠を疑う理由を見つけよう)とするだろう。この回避の試みは、 ほぼどんな場合でも成功する。社会はなぜ左と右にわかれるのか ジョナサン・ハイト・位置1260 では、〈象〉はいつ理性の声を聞くのだろうか? 道徳的な問題に関して私たちが考えを変えるのは、おもに誰かと話し合っているときだ。 人は自分の考えに反する事実をあえて探そうとはしない。 だが他の人が代わりに、間違い探しをしてくれる。というのも、私たちは、他人の考えなら、そこにいともたやすく間違いを発見できるからである。 論争になると、 人はほとんど考えを変えようとしなくなる。 〈象〉 は論争相手から遠ざかろうとし、〈乗り手〉は相手の挑戦を、むきになって論駁しようとするのだ。 しかし相手に愛情や敬意を抱いていれば、〈象〉はその人に向かって歩み寄り始め、 〈乗り手〉 は相手の主張に真理を見出そうと努めることだろう。〈象〉は、自分が背負っている 〈乗り手〉 の反対意見に応えて、考えを簡単に変えようとはしないかもしれないが、それでも友好的な 〈象〉 がいるというだけで (社会的直観モデルの社会的説得リンクにあたる)、 あるいは友好的な〈象〉 の 〈乗り手〉 のすぐれた議論によって(理由づけられた説得リンクにあたる)、容易に態度を軟化させるはずだ。社会はなぜ左と右にわかれるのか ジョナサン・ハイト ・ 位置1653