理解したら終り
最近よく思うこと。理解とはコミュニケーションを一定程度円滑にする対象に関する誤解である。一定程度の理解ならいいが、理解が過剰になると、その人は本当は全然違う要素を持っているのに、こちらの理解の枠組みに当てはまらないので、こちらの理解の枠組みを持って、他者を、相手を否定する契機となってしまう。
https://youtu.be/0v9WhRpQw8E?si=QCXNpepdc2cEEOSH
And the more I see, the more I know / The more I know the less I understand わかればわかるほどよく知れる 知れば知るほど理解できなくなる。
まさにこれ。
たとえばコミュニケーションの初期段階では、ある種の決めつけが有効に発揮する。「まじめだよね」とか「姫気質だよね」のようなキャラ見たてでいじることによって、その人のおもしろさが見えやすい。ところがこれが定着してしまうと、何でも「まじめやなー」「今日も姫ですね」のように回収されてしまい、キャラに反する自己イメージを受け入れてもらえなくなる。お笑いにおけるいじり参照。 他者を理解するために他者を理解しない。他者を理解しないために他者を理解する(一定程度)
これは私がよくひく例で、 オスカー・ワイルドの作品の中にある話ですが、 ある若い婦人がウィンダミヤ夫人という貴婦人の催したパーティーで、声をはずませながら 「私たちは理解し合ったので婚約しました」 と言うと、ウィンダミヤ夫人が 「あらとんでもない、理解というのは結婚の最大の障害よ」 と言ったので、 その若い婦人は唖然としてしまったというのです。 オスカー・ワイルドは、そういうウィットの名人ですが、 これはウィットにしても非常に真実をうがっていると思う。 というのは、よく理解したというけれども、それは自分が理解したように相手を理解しているだけなのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1319 オスカー・ワイルドの言おうとしたことはどういうことかと言えば、 お互いに理解したと言って相手を自分の理解力の中に閉じこめてしまうことの危険です。 そのような理解のしかたをしているから、 相手が自分の理解している以外の行動をするとそれを裏切りだと思うのです。 それはただ自分が相手を十分理解していなかっただけなのですが、それを「理解、 理解」 といって、 相手を自分の理解力の圏内に閉じこめてしまうことは実は、 相手に対する非常な無礼であり、 抑制なのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置 1324 この点でおもしろいのが嶽本野ばら。彼の処方箋は(そんなつもりないだろうけど)、ナルシシズムによって自己の中に他者を侵入させないというもの。そしてその自己を「好き」「美しい」という気持ちでいっぱいにすること。内面は「もったいないから」見せない。 乙女の倫理はナルシシズムにあります。 フリルもリボンも、私が私に愛される為の小道具です。 乙女の行動が時に退行現象と受け取られるのも、性を排除するように見受けられるのも、 全てはこれが原因です。 他者とのコミュニケーションに重点を置かず、自己の中の他者とコミュニケーションをとると、表面上そのようにみえてしまうのです。 相手が自分の理想通りでないと幻滅してしまいます。 それを相手の人格を尊重しない精神的成長のなさと責められても困ります。 相手なんて最初から存在しないのですから。 現象としての相手は自分の中にいる相手の影に過ぎないのですから。それいぬ 嶽本野ばら ・ 位置 1172 嶽本野ばら、おもしろいですね。自分はこの人を「保守」として見てる。ナルシシズムと「美しいもの」への愛でつきぬけちゃいなよ!な保守。「私とはなんだ? それを提示しなければ」「受け入れられたらそんなのぼくじゃない」「受け入れられないと理解されてない、失敗だ.....」って近代小説的な自我、自己の実存的悩みに対しては「えー、だって、内面なんてもったいないから見せたくないよね?」で終了。 好き!という回路で他者とのつながり、つきあう関係を保ちつつも、「理解しよう」は諦める。「わからん」ものとしていろんなものと広く付き合う寛容性が、実は福田恒存と同じようなこと言ってておもしろい。 オープンダイアローグが今、注目を浴びているのもそういうことなんだろうと思う。対話を継続させるために、他者を「わかりすぎない」ことが大事だと斎藤環は言う。 私たちがやっていて難しさを感じるのは、逆に、わかりすぎないように、一致させすぎないようにこらえることです。 / 一致させるほうがある意味簡単なんですが、それがいい方向につながっていくとは思えない。違和感や、わからなさや、違い、そういったものが際立つほど、後で出てくる変化も大きいという気がするぐらいです。 / ですから、すぐわかった気になるとか、すぐ合意しちゃうとか、そういうふうにならないように気をつけてほしい。合意できるんだけれど、ある程度自分の違和感も口に出してみるとか、そういうことをあえてやってもいいと思いますし、とにかくいろんな意見が同時多発的に出てくるようにする。ポリフォニックな空間を目指していただくときに、わからなさというのは最高のスパイスになると思いますので、そこを温存しつつ、話を広げられたらいいなと思います。やってみたくなるオープンダイアローグ 斎藤環 水谷緑 p.88 噛み合わなくていいんですよ。いかに違うか、いかにわからなかったかを際立たせていくほうが大切です。私たちがやっていて難しさを感じるのは、逆に、わかりすぎないように、一致させすぎないようにこらえることです。 / 一致させるほうがある意味簡単なんですが、それがいい方向につながっていくとは思えない。違和感や、わからなさや、違い、そういったものが際立つほど、後で出てくる変化も大きいという気がするぐらいです。 / ですから、すぐわかった気になるとか、すぐ合意しちゃうとか、そういうふうにならないように気をつけてほしい。合意できるんだけれど、ある程度自分の違和感も口に出してみるとか、そういうことをあえてやってもいいと思いますし、とにかくいろんな意見が同時多発的に出てくるようにする。ポリフォニックな空間を目指していただくときに、わからなさというのは最高のスパイスになると思いますので、そこを温存しつつ、話を広げられたらいいなと思います。pp.87, 88 わかることは簡単で、わからない状態でずっと維持するほうが大変。今後、自分もどんどんコミュニケーションスタイルを変えていこうと思う。
相手を変えるためには相手を「変えようとしない」で対話を続ける必要がある。対話を続けるためにはどうすればいいか。逆に考えればいい。対話を終わらせるためにはどうすればいいか。「理解しきって」しまえばいい。そこで相手から聞き出すことは何もなくなり、謎はなくなり、対話が終わる。変化のない状態になる。