森博嗣
https://gyazo.com/9f1426efa6843dd2113f86d86e509212
遠視の森博嗣
ところで、僕が本や絵本を読むことが嫌いだったのは、 目のためでもある。 僕は、遠視だった。 それは、そのときはわからない。 目の検査をすると、一番小さい文字が読めるから、 視力は良い、という診断しかされない。僕は、保健室に入るまえ、廊下にいるときから、 視力検査表の一番下にある文字や記号がすべて読めた。距離が二倍の位置からでも、二・〇の小さな文字を見ることができた。これは、視力四○というらしい。 でも、そんな測定はしてもらえないのである。 本に書かれている絵や文字は、 腕を伸ばし、 本を思いっ切り離しても、なかなかピントが合わない。 じっと見つめて焦点を一所懸命合わせて、やっとなんとか見える。 だから、読めないわけではない。 でも、ピントが合うのに時間がかかるのだ。読書の価値 / 森博嗣・8ページ
読んだ本はぜんぶ覚えちゃうからすぐ捨てる森博嗣
僕は、文字を読むのが遅い。 一字ずつ読んでいた。 そのかわり、考える時間は充分にある。 本で一度読んだことは、ほとんど忘れない。 たとえば、 僕はこれまでに読んだ小説のあらすじはすべて説明できる。二回読むことはない。 一度読めば、もう読む必要がない。 だから、 僕は文庫本や新書は読んだらそのまま捨てることにしている。 これは、今でもその習慣である。 ただし、固有名詞はまるで覚えていない。 登場人物の名前も覚えられない。 僕が記憶できるのは、そういった細かくて具体的なデータではなく、 その本に書かれていたテーマ、新しさ、特徴などである。読書の価値 / 森博嗣 22ページ
出版社から送られてくる贈呈本以外の本は、すべて電子書籍で読んでいる。 印刷書籍は、読み終わったら捨てるから溜まらない。 本棚はいらないまま、 というわけである。読書の価値 / 森博嗣 112ページ
夏目漱石も源氏物語もおもんない森博嗣
ファンの人には申し訳ないが、 僕は、夏目漱石の作品が面白いと思ったことは一度もない (森鷗外は比較的好きだ)。 父は面白いと話していたから、 その世代には受けたのかもしれないけれど。読書の価値 / 森博嗣 33ページ
古文では、随想 (つまりエッセィ) が面白く、 吉田兼好などはユーモアが感じられる。一方で、源氏物語は何が面白いのかまったくわからなかった。 小説というのは、昔から退屈なものだったのだ。 よほどの想像力を駆使して、美しい人物を頭の中に思い描かないかぎり、興味が持てない代物といえる。読書の価値 / 森博嗣 91ページ
早稲田に合格したのに名古屋大学に進学する森博嗣
しかし、電気学科は工学部の中では真ん中くらいの偏差値で、それよりも建築学科が上だった。 高校の進学相談のとき、先生が、 第一志望は建築にしないと意味がない、とおっしゃったので、しかたなく、 建築を第一に書き換えたのである。 もう一つ、 早稲田大学は電気工学科を志望して受験した。 結局、どちらも合格したが、名古屋大学は建築学科になってしまったのである。 建築にはほとんど興味がなかったけれど、まあ、勉強しているうちに、なにか面白いことが見つかるだろう、くらいに考え、 金のかからない地元の国立大学に入学した。読書の価値 / 森博嗣 36ページ
文庫とか新書とか何のことか知らなかった森博嗣
単行本と呼ばれる大きくて固い表紙の本は、 小学生のときの課題図書とか、図書館に並んでいる古い本か、あるいはつまらない子供向けの本のイメージがあって、 僕は敬遠していた。 面白い本は、文庫に多かったこともある。 すべての本は、 最初に文庫になる、と思っていた。読書の価値 / 森博嗣 140ページ
読者にしてみれば、最初に出る本は高い。置き場所にも困るし、持ち歩くのにも不便な大きくて重い本だ。しかし、できれば早く読みたい。 どうしても読みたいファンは、その高い本を買うしかない。 それでは、買える本が減ってしまう、と節約したい人は、三年ほど我慢して、文庫落ちを待つのである。中身は同じなのだから、こちらの方がお得だ。 これが、 小説ファンにほぼ浸透した習慣だったのである。 もうすぐ四十歳になろうかという僕は、 そんなルールも習慣も知らなかった。読書の価値 / 森博嗣 141ページ
評論なんかこの世にいらない森博嗣
論文などの科学的なものや、 議論をすることに意義がある論考ならば話は別であるけれど、 文芸作品に対する評論というものの意義を僕は認められない。 僕にとっては、 評論は必要ない、と考えている。読書の価値 / 森博嗣 129ページ
毎日読書する読書を心から楽しんでる森博嗣
今の僕は、本当に読書を楽しんでいる。 こんなに本に親しんでいるのは、過去になかったことだ。毎日、平均して二時間以上は読書をしているだろう。 ただ、固まって二時間ではない。十五分くらいずつ八回、みたいな意味だ。 しかも、一冊の本ではない。 読みかけのものが常に五、六冊あって、あちらこちらに散らばって置いてあるから、 その場その場で少しずつ読むことになる。読書の価値 / 森博嗣 163ページ
家事も育児も何もしない森博嗣
しかし、それにしても、奥様や子供たちに迷惑をかけたことは否定できない。 僕は家事はなにもしなかった。奥様は、食費を切り詰め、買いたいものも満足に買えない。 子供の服は自作していた。 おもちゃなどは買えないし、絵本も買えない (僕が買った雑誌をみんなで見ていた)。こういった苦労があったから、「奥「様」と敬称にしている。 現在も、その罪滅ぼしをしている最中である。読書の価値 / 森博嗣・94ページ
クロスドミナンスの森博嗣
僕は両手が利く。 文字はどちらでも書けた。 どちらが書きやすいということもない。 これは箸もそうだし、スポーツ全般に関してもほぼ左右対称である。 文字については、書き順や文字の形がそもそも右利き用にできているので、 右で書いた方が有利だということはある。 だから、 できるだけ右手を使うようにしていた。でも、国語のノートのように縦書きになると、右手で書くと書いた字を手で擦ってしまうのが不具合だから、ときどき左手で書いていた。絵もどちらでも描けるのだが、 絵の具を使うとパレットを机のどちらかに置かないといけないので、そうなると制限を受ける。 しかし、いつまでもこのままではいけないと自分でも感じたので、小学生のときに、だいたい右手と左手の役目を割り振ったのだ。文字は右にした。絵は、下描きは鉛筆だから右でして、絵の具で塗るときは左にした。箸は右にした(これは幼稚園のときにそう強制されたこともある)。読書の価値 / 森博嗣 ・ 96ページ
バリバリ共感覚の森博嗣
僕の場合、 概念のような抽象的なものを示す言葉も、図形でイメージしている。 そういったレゴブロックのようなものを組み立てる映像 (動画) が、 僕が論理的に考えるときに頭の中に現れる。 いちおう三次元空間のようだが、好きに歪ませることもできるから、現実にはありえない変形も可能だ。 数学も同じで、 数字は長さとしてイメージされ、 座標上で長さを持った棒が足し算なら連結し、 引き算なら並んでカットされる。 数学の代数は幾何としてイメージされているのである。 言葉で考えている人は、 数字も言葉だと理解しているようだった。 僕には、そういう人がどうやって計算をするのか不思議だ。 おそらく、 九九のように言葉として結果を暗記してしまうのだろう。読書の価値 / 森博嗣 115ページ
僕の奥様は、スーパで買うものをメモしている。 僕は、 運転手兼荷物持ちとして、 しばしば一緒についていくのだが、奥様はかなりの頻度で、 そのメモを忘れてくる。 ポケットに手を入れて、 「ない、 メモがない」と慌てていることが多い。 メモをしたのだから覚えているのではないか、と僕は思うのだが、 五つあったら三つくらいしか思い出せない、とおっしゃっている。 おそらく、逆に、メモをしたから忘れるのだろう。外部に出すといっても、こういったアウトプットはむしろ書き留めたことで安心してしまい、頭の中のデータが消えてしまう、ということなのではないか。 あまりにこのトラブルが多いので、僕は、記憶する方法を彼女に伝授した。 「まず、 個数を覚える。 買わなければいけないものがいくつあるか数えて、その数字を覚える。 あとは、その数だけ頭の中で絵を描く」 といった方法である。 奥様はイラストレータなので、絵を描くのは得意のはずだ。 そもそも、彼女のメモは半分以上絵なのである。 すると、 「その数字が覚えられない」とおっしゃった。 「だったら、 数字の絵を描けば良い」 と言ったのだが、 その後は、うやむやになって、結果がどうだったかは聞いていない。読書の価値 / 森博嗣 124ページ