小説
「小説って、基本的に人間の人生の色々について書かれてるんでしょ?でも俺にもおまえにもつくりものじゃない手持ちの人生がすでにあるっていうのに、そのうえなんでわざわざよそからつくりものを持ってきていまさらそんなものをうわ乗せしなきゃならないんだ?」僕はそれにも黙ったまま、なにも答えることができなかった。「そういうのはマジックなんかと一緒でさ、あれってなにがうれしいんだろうね。俺にはまったく理解できないよ。思わないか?だってそれはしかけがちゃんとある単なる手品なんだぜ?ただの技術なんだから。そんなことを見たりやったりするのを繰りかえしたって本質的なことはなにも変わらないし、変わるどころか酷くなるんだよ。みじめになっていくんだよ。だってそれは正真正銘の噓なんだから。本物の魔法じゃないと意味ないんだよ。圧倒的につまらない」川上未映子. ヘヴン (Japanese Edition) (p.113). Kindle 版. すると不思議なのは、あれほど熱中していた 「近代文学」 がどうでもよいものに見えてきたことだった。将来に対する展望があればこそ、 「近代文学」 が描く内的葛藤は、 人生と社会に対する批評性=新しさを持つことができる。が、将来に対する展望がなくなれば、 こちらとしても、わざわざ他人様の内面などに付き合う暇はない。いまさら人生を引き返すわけにもいかない自分にとって、 その内面がどうであろうと、 他人の人生は他人の人生でしかなく、 自分の人生は自分の人生でしかないという至って単純な事実が、 ようやく自分の腹に落ちてきたということだったのかもしれない。反戦後論 浜崎洋介 239ページ 要するに「小説」 とは、 ある超越的規範によって吊り支えられてきた共同体 (故郷) の崩壊において不定形となってしまった世界 (都市)、および、 そんな世界に投げ出されてしまった人間を、 「孤独のうちにある個人」(内面) を通して描き出し、 そのあり方を批評しようとした近代特有の文学ジャンルだったということである。反戦後論 浜崎洋介・89ページ 当時の私は、私が書いていた 「小説」 が、 たとえ現象的に売れたにしろ――そんなことは想像もできないがついに「便所の落書き」ではないと言い切れる根拠がどうしても見つからなかったのだ。 前衛としての「小説家」 という自堕落な概念に覚め切ってしまえば、残るのは 〈反省 = 内面〉 という名で言い訳された己の醜い自意識でしかない。 しかし、 そんなものは、 太宰治の堂に入った 「道化」 ぶり、いやエヴァンゲリオンの碇シンジの自意識でさえ既に十分なはずだった。反戦後論 浜崎洋介 • 118ページ では、改めて問おう。 そこから自由になるべき 「現実」 を失い、 また、 そこへと自由になるべき 「理想」を失っている現在、私たちは一体何を足場として 「文学」を生きることができるのか。 毎月量産される 「小説」 をよそに、それと共闘しようとする 「批評」 は存在しない。 一見 「批評」 と見えるものは私の文章も含めて 単に器用な作品解釈のパフォーマンスでしかない。 「様々なる意匠」 は相変わらずだが、それらのなかの一つでも、かつてプロレタリア文学が身に帯びていた程度の緊張さえ生きようとする者はいない。 この十年余り、残るものの何一つない、現れては消え、 消えては現れるアブクのような「自意識」ばかりを見せつけられてきた気がする。もちろん、 そんな現状を嘆く私の言葉も例外ではない。反戦後論 浜崎洋介 124ページ なるほど、 日本の近代作家が描いた 「内面」には、西欧の近代文学が強いられた 「内面」 とは違う、ある種の臭みが付きまとっている。 臭みと言って悪ければ、 装われた深刻さと言ってもいい。 つまり、 共同体と歴史の幕(型)を失ってしまったが故に露出してしまった 「内面」に苦しむ姿を描いたのが 「西洋の近代文学の幾つかの「傑作」だったのだとすれば、 日本の近代文学―自然主義・白樺派・私小説―は、描かなければ描かなくても済んだのかもしれない 「内面」 を、 しかし、 わざわざ描き出し、 さらにそれを描くことによって、自らの 「近代「的自我」 の存在証明を企てようとしたのだった。 そこには、社会的=政治的可能性 (立身出世)の限界からはじまったはずの西洋文学を「憧憬」 しながら、 それによって自らは新たな立身出世 (文壇における盛名) を遂げてしまうという近代日本文学特有の臭み (欺瞞) が存在している。反戦後論 浜崎洋介・160ページ