批評
ところで、批評とはなんだろう。 そこにどれほどの価値があるだろう。 私自身の経験から言うと、 残念ながら、ほとんどなんの価値もない。 批評なるものの大半は腹が立つほど漠然としている。 たとえば、"ピーターのストーリーは感じがいい...... 何かがある...... よくわからない感覚だ...... ある種の優しさみたいな...... うまく説明できないけれど....書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.252 しかし、小林秀雄は、重要なのは 「解析」 された意味ではなく、その意味の 「豊富性の底を流れる、 作者の宿命の主調低音をきく」 (傍点引用者) ことだと言うのです。 「宿命」 などと言うと大袈裟に聞こえますが、それは要するに、作品が、 ほかならぬこの作品として、意味より手前で―あるいは意味からはみ出して私の眼前に統一した形(魅力的な姿)を成しているという事実を指しています。反戦後論 浜崎洋介・234ページ だから、小林秀雄は、作者の「宿命」、あるいは、それを聞き取ってしまっている自分自身の 「宿命」の自覚の中に、「批評の可能性を悟る」のです。 小林は言います、 「批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。 批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であつて二つの事でない」と。つまり、「批評」とは、新奇で独創的な意味の読解を競い合う行為ではなくて、むしろ、 その手前で、 作品と私が出会い、その出会いの中に己の 「宿命」 を自覚していく行為だということです。 事実、その出会いが深ければ深いほど、 私を動かしたこの作品を抜きにして私を語ることはできないでしょうし、 また、 作品を享受したこの私を抜きにして作品を論じることもできないでしょう。反戦後論 浜崎洋介 234ページ だとすれば、〈批評 =学問〉を突き動かし、 ある作品の「愛読」を可能にしているものこそ、この「有用性を離れて自立する言葉の表現性を目指す」 試み、 つまり 「文学」 だと言うことができましょう。 むろん、「内面」(意味)を描いてきた 「近代文学」 と、 小林 =宣長の言う 「文学」とはニュアンスが違っています。 が、 改めて言えば、 近代文学が描く 「内面」 にしても、その意味を読み解きたくなるためには、それ以前に、詞の美しい「姿」に私達が動かされている必要があるのだということです。反戦後論 浜崎洋介・238ページ