シェイクスピア
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しかし、それはもちろん単純な「勧善懲悪」ではない。その証拠に、 たとえばシェイクスピア悲劇を観劇している最中、 私たちの感情は確かにその主人公たちと共にあり、 決してその「悪」 を罰したいというような思いに駆られることはない。むしろ、 意識的には「悪」と分かっているにもかかわらず、いかようにもし難い生命の欲望に突き動かされていくシェイクスピア劇の主人公たちを目の前に、 私たちは私たち自身の無意識の欲望を、 その生命の手応えを確かに感じ取っているだろう。 そして、己の「情熱」を舞台に仮託しながら、 その欲望を、彼らと共にその果てまで生き抜こうとするのである。 しかし、 それは決して自らの欲望が 「善」 であるということを意味しない。 ただ、 人間とは、ときにそのような過剰な欲望を生きてしまうものであり、 また、 そのような過剰を強いたのが特に 「近代」 という時代だったのだということである。反戦後論 浜崎洋介 • 165ページ おそらくここに、ギリシア悲劇を超えるシェイクスピア悲劇の手応えが存在している。もはや世界は、「調和」と「分裂」との二つ――それ自体が秩序であるような二元的世界一でできてはいないのだ。 だから、 神々は、人を調和から分裂へと陥れることも、 その分裂から調和へと導くこともできない。 眼前に広がるのは、 ただ「裂け目が裂け目と見えず、 裂け目でないものが裂け目と見える」、そんな 「収拾の附かぬ観念の分裂」だけである。そこには、 すでに笑いと狂気、 喜劇と悲劇とを見分ける境界線はない。 存在するのは、精神を失った「物理的な世界」であり、 「感覚」 だけの世界である。 福田は言う、「吾々が心を通はせる手掛り」 のことを「自然」(四季の恵み、親子の情愛など)と呼ぶのだとすれば、 「今や、リアの目には親子の愛情を始め、すべての人間の 「自然」 が姿を消してしまったばかりでなく、地上の大自然そのものも全く存在しなくなつてしまったのである」と。反戦後論 浜崎洋介 171ページ しかし、ここで注意するべきは、そんな不条理な世界を徹底したときにのみ、 ある種の 「秩序感覚」 が甦ってくるという福田の言葉である。反戦後論 浜崎洋介 • 171ページ ここに、福田恆存のシェイクスピア観、あるいは福田独特の 「秩序感覚」の秘密があった。 なるほど、リア自身は、「巨大な裂け目が不気味な姿を曝してゐる」 この世界のなかで「狂気」に陥る。が、私たちが、その「狂気」を「狂気」として見ることができているのは何故なのか。 あるいはこう言いかえてもいい、 いかに世界が「秩序の崩壊」と「醜怪な不条理な様相」 として展開されていたのだとしても、 それを私たちに「秩序の崩壊」や 「醜怪な不条理な様相」 として感受させ、かつそれを味わわせているものとは何なのか。 おそらく、それこそが作品『リア王』 の力、つまりシェイクスピアの 「言葉」 の力なのである。反戦後論 浜崎洋介 • 172ページ