カーニズム
完全菜食主義は動物、 世界、 そして人間に関する一連の想定に基づいた選択肢の一つだと考えますが、肉を食べることはそれとは違うと考えます。 肉食は既定の事実であって、 「自然に」 行うこと、これまでもそしてこれからも当然のように行われることとして私たちは捉えています。 自分たちが何をしているのかを考えもせずに動物を食べますが、それは、この振る舞いの根底にある信念のシステムが目に見えないからです。 そしてこの目に見えない信念のシステムのことを私は「カーニズム」 と呼ぶのです。 カーニズムは、 人間に特定の種の動物を食べることを条件づける信念のシステムです。現代思想2022年6月号 特集=肉食主義を考える——ヴィーガニズム・培養肉・動物の権利…人間-動物関係を再考する / 肉食主義(カーニズム)「そういうことになっているから……」メラニー・ジョイ・44ページ 「肉食主義」 とは、現代の肉食を支えているそうしたありようを明示化するために社会心理学者の M・ジョイが作った言葉である。 簡単にまとめれば、 肉食主義という言葉に訴えるジョイの議論は、次のようなものである。人間は、たとえば、一方では犬にたいして共感をもってふるまい、 他方で豚を殺して食べている。これは、犬を食べることは人間の身体の特性上できないから、というわけではもちろんない。 犬を食べる文化も存在するように、 あるグループ (典型的には種) に属する存在を食べるかどうかは、 人間がその存在を食べ物とみなすかどうかによって左右される。 そして、 食べ物とみなされている動物を食べることは、普通で(Normal) 自然 (Natural) 必要なこと (Necessary) として奨励されている。 他方で菜食主義者は、たとえば皮革製品を使わないのであれば極端だとみなされ、 使えば偽善的だと言われるなど、 社会のなかで居場所を奪われがちである。 だが実際には、 犬にたいする私たちの態度と豚にたいする態度の間に、 不整合があることは明らかである。にもかかわらず、その不整合は、精神的無感覚 ( psychic numbing) によって、食べられる動物にたいする共感が阻害されることで、認識されなくなっている(5)。この無感覚状態が生じるのは、動物を単なる物のようにみなしたり、 個体として動物を見ることをやめたり、動物を愛玩動物と畜産動物に区分けしたりといった仕方で、認識がゆがめられているからだとジョイは指摘する。動物をめぐるこうした数々の信念や見方は、社会に浸透し、定着しているため、 容易には気づかれない。 ジョイによれば、私たちは気づかないままに、特定の動物を食べることを受けいれるよう条件づけられている。 ジョイは、こうした状況を、家父長制の価値観が目に見えない仕方で社会に浸透していることによって、 まるで当然のように、 社会において男性が支配的立場となり、いわゆる男性らしさがより高く評価されてきた状況になぞらえている。現代思想2022年6月号 特集=肉食主義を考える——ヴィーガニズム・培養肉・動物の権利…人間-動物関係を再考する / 動物のウェルフェアをめぐる理解と肉食主義 久保田さゆり・55ページ カーニズムはヴィーガニズムの対極に位置するものですが、 カーニズムはその実態が目に見えないだけに、 ヴィーガニズムのように名称がつけられていません。 ともするとヴィーガン(とベジタリアン)だけが食の場面に自分たちの信念を持ち込むと思われがちです。 しかし、今日、世界中の多くの人々に当てはまる事実、 つまり人間が動物を食べることは必要でないとなると、 動物を食べること自体が一つの選択肢となります1。 選択という行為は常に信念に由来するものなのです。 ほとんどの人は豚を食べますが、 犬は食べません。 これは、まさに人間が動物を食べることに関して信念を持っていることの現れです。 カーニズムというものがあることを意識していないが故に、動物を食べることに関して本当は選択肢があることを、 人は気づいていないだけなのです。カーニズムを認識してこそ、選択の自由を取り戻せます。 つまり、認識できなければ、選択の自由はないということです。また、このような自覚を持つことで、 究極的には自分自身や他者を断絶するのではなくお互いにつながる道を選ぶことができるのです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ・125ページ 肉食は「そういうことになっているから」 なのです。 むしろ私たちは、 食に関して選択をしないよう促されます。子供が、自分の食べている肉と生き物との関連性を見出しそのために苦悩すると、大人はカーニズムを素直に受け入れるよう子供をなだめすかします。 どれだけ不合理なことでも、そうした振る舞いが広く社会に浸透していると、それは単に当たり前のこととして受け入れられ、反論の余地もなくなってしまうのです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 127ページ カーニズムの基本の防衛手段は否定です。 もし不都合なことがあったとしても問題など何もないと否認すれば、その不都合に対処する必要がなくなります。 否定は、主に不可視性という形で表れます。 カーニズムが目に見えないままで居続けられる理由の一つは名称がないからです。 システムを名付けなければ、 動物を食べることは信念体系に基づいているわけでもなく、 道徳的に良くも悪くもない行動で、当然のことに過ぎないと捉えられます。そして、システムは不可視化されていれば、それに対して人間が疑問を持つことも挑戦することもできないし、私たちは動物を食べるか食べないかの選択肢があることにも気づきません。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 129ページ ヴォルテールの言葉に 「不条理を信じるならば、残酷なこともできる」 というのがあります。 カーニズムは、 人類史上の闇の部分である数々の残虐行為、暴力的イデオロギーのひとつに数えられます。 それらの凶行の犠牲者たちが体験することはそれぞれ違っても、暴虐を可能にするメンタリティは同じであるため、暴力体制自体は類似しているのです。 そのようなメンタリティというのは、新たに作り出されるものではなく、受け継がれるものなのです。 そして、 カーニズム的なメンタリティの正体を知れば、動物を食べることは単に個人の倫理観の問題ではないことが理解できるでしょう。それは、抑圧的なシステムが生み出す必然的な結果なのです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 137ページ 多くの人の心と体は実のところ、ヴィーガニズム―動物のことを気にかけ、より健康的な生活を送りたいと願うと合致するにもかかわらず、ほとんどの人はカーニズムの真実を知ることに抵抗を示します。 なぜなら、私たちをカーニズム的マトリックスから引き離すであろう情報そのものに抵抗するよう、 カーニズムが私たちを方向づけているからです。 そして、その方法のひとつは情報をもたらす人たち、つまりヴィーガンに影響されないように仕向けることです。 ヴィーガニズムは、 道理に反し暴力的な信念体系がそこにあることに気づいてもらい人間が思想と選択の自由を取り戻せるようにすることを唯一の目的としていますが、カーニズムはそのようなヴィーガニズムについて、 あらぬ神話や固定観念の数々を人々に信じ込ませようとします。 その結果、 私たちは本来仲間になれるはずの人たちと対立してしまうのです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 139ページ これと同じように、子供をヴィーガン食で育てる親は自分のヴィーガニズムを子供に押し付けていると言われますが、ノンヴィーガンは自分のカーニズムを子供に押し付けていると捉えられることはありません。 通常は、親が自分の信念に従って子供を育てるのは当然のことだと認識されるので、キリスト教信者の親が自分の子供を無神論者として育てたり、民主党支持者が自分の子供を共和党支持者になるように育てたりすることは期待されていません。しかし、ヴィーガンが自分たちの考えをどのような形で示そうと、結局は支配しようと試みていると周りの人に言われてしまう傾向があり、いずれにしろその方法が直接的であからさまに支配しようとしていると見られるか、間接的に人を操ろうとしていると見られるかのどちらかです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 144ページ カーニズムのナラティブは、ノンヴィーガンの見解がヴィーガンのものよりも重要であり、見解に相違がある場合には、大抵の場合ヴィーガン側が証明責任を負うものだと思い込ませます。 例えば、ヴィーガニズムについてより知識を持っているのは、ノンヴィーガンよりもヴィーガン本人のほうです。 これは、ゲイやレズビアン、トランスジェンダーの人たちがシスジェンダーの人たちよりも性の問題に詳しいのと同じです。 それにもかかわらず、ヴィーガニズムの話題になると、ノンヴィーガンはヴィーガンに向かって、ヴィーガニズムの考え方やその信念に基づく食生活は間違っている、 と熱く主張することがあります。 さらに、ヴィーガンが栄養や食に関する情報を共有しても、ノンヴィーガンの見解はまっとうでヴィーガンからの情報は偏っていると捉えられがちです。そして見解に違いがあるとき、ノンヴィーガンには決して求められないような証明責任をヴィーガンは負わされ、ヴィーガンは自分の見解が正しいことを証明しなければならないような状況に置かれるのです。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 145ページ 意識することで、動物を食べることに対してどのように関わるべきかを選択することができます。 もしヴィーガニズムの価値観に共感し、 カーニズムから脱却したいのであれば、 肉食を止めてヴィーガンになれば良いでしょう。もしヴィーガニズムに共感しても、まだ完全にヴィーガンになる心の準備ができていないのなら、時間をかけてカーニズムへの加担を減らしていくことを心に誓うこともできます。 カーニズムとヴィーガニズムのスペクトルの自分がどこに位置しているのかということよりも、 どちらの方向に向かっているのかのほうが往々にして重要なのです。一つはっきりと言えるのは、ヴィーガン/ノンヴィーガンの関係においては、両者のスペクトルが近ければ近いほど、食にまつわるダイナミクスはシンプルになります。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ・152ページ