家父長制
それは「問」の構造が強要しているのに、発言したのは女性であるゆえに、女性自身の考えとして「標本化」されてしまう。そして「問」への答えを呈示したのは女性であるがゆえに、「問」という形で行使された女性運動を特定の方向に導いていってしまった力は、その作用した痕跡を消していく。
> 作用した痕跡を消す権力。すなわち行為者の自発的な行為を巻き込む権力。それは社会構造自体にはらわれた権力であり、特定の個人の意図には還元できない権力作用である。われわれはそれをこそ、家父長制と呼んでいる。制度を問題にするとは、当然にもそういうことなのだ。フェミニズムと権力作用p.32 それは、女性差別的なポルノを批判する女性運動の言説においても、女性差別的な広告を批判する言説においても同様である。これらの言説はいずれも、女性運動の「勇み足」のように聞こえてしまう。個人の自由、表現の自由という現代社会の根源的規範と、女性の自由を目的とした女性運動がなぜか対立させられてしまうような言説構造が存在するのである。私は、この対立を産出する言説構造自体が、女性運動を支配している権力作用の一端であると考えている。フェミニズムと権力作用pp.29-30 事態を正確に観察すれば、行為主体として、積極的に支配装置に関与しているのはむしろ女性である。女性たちは積極的・自発的に「問」を再生産しその「問」に対する答えを女性内部の差異化の根拠としているように見える。先述したように、女性たちは自ら運動内部の「権力ゲーム」の装置として、これらの「問題」を使用しているように思える。ある種の発言に対する禁止の圧力をかけ、その禁止を侵犯する者を敵として再生産しているのは女性のように見える。少なくともわれわれは女性の自発性を否定できない。フェミニズムと権力作用p.30