フェミニズムと権力作用
https://m.media-amazon.com/images/I/31PRrXQDK2L._AC_UL320_.jpg
[性差はある、いやないという]この対立は本当は無用の対立である。それは、女性の社会的処遇を性差の議論と関連づけ、しかもそれを女性自身に選択させるように装うこの「問」のたてかたが自動的に産出する対立にすぎない。しかし、その問は女性運動内部の論争や権力抗争の道具として使用される。運動者自身が自らの立場の正当化のためにその問を利用している。そして、問自体が構造的に歪んでいるこの問は、必ず女性自身に対立を生む。男性はあと黙って見ていればいいのである。この内部対立が、女性運動を自動的に終結に導いてくれるのだ。高見の見物を楽しむことにしよう。フェミニズムと権力作用pp.18-9 しかし、問そのものは、女性がたてた問ではない。性差がなぜ女性運動の重要な論点かといえば、それは男性が女性は劣っているので平等の処遇はできない、という論調を持っていたために、女性自身がその論拠を崩すべく、性差はないということを反射的に主張してきたにすぎない。このはじめの男性の論調が、すなわち特定のイデオロギーが、これらの論争を規定してしまっている。 性差があるかないかなど、この問にとっては二義的な問題なのだ。平等の処遇を主張するか否かということが、問題の焦点である。ところが、その主張のためには、女性は過剰の主張、すなわち「性差はない」という主張を強要されてしまう。性差が全くないなんて、基本的にはだれにも言えない。しかし、そう言わなければならなくなるところに、この問のもつ歪みがある。フェミニズムと権力作用pp.19-20