「あらゆる差別に反対」の危険
SNSのプロフィールで「あらゆる差別に反対」「すべての差別に反対」などと書いている人がめちゃくちゃ多い。スローガンとして言いたいことはわかるが「何にもならない」し、悪影響すらありうる。 「あらゆる」「すべての」なんて当たり前。当たり前のことを言うことに意味がない。問題は「あらゆる」「すべて」に何が含まれているのかだ。障害者差別、セクシャリティ差別、性差別、民族差別は「わかりやすい」(今、SNS上の話題としてしばしば言及されるという意味)が、では種差別はどうか(「人権が大事の問題点」参照)。種差別をことさら問題視している「あらゆる差別に反対」アカウントは少ないと思われる。 「私はあらゆる差別に反対だ」は「私が反対していないのであればそれは差別ではない」である。ネトウヨですら同じことを言う。 もちろんわざと意図的に特定の民族やセクシャリティに対して差別をする人もいないことはないが、多くは「私たちは差別しているのではない。区別しているのだ」とか「差別しているのではない。特権を批判しているだけなのだ」とか「差別しているのではない。私たちが差別されているのだ」とか言う。多くの差別が「これは差別ではない」という形で実行されていることを考えれば、問題なのは「何が差別か」なのであって「すべて」を自明だと信じ込むことではない。
実際、大変残念なことだが、「すべての差別に反対」と書いているが、トランスジェンダーへの差別を毎日繰り返してる人なんてゴロゴロいる。その人たちの中では「これは差別ではない」「区別だ」「特権批判だ」「差別されてるのは私たちだ」になっている。「私はすべての差別に反対の立場なのだから」が自身のバイアスの補強にしかなってない。
それでもプロフィールに頻繁に利用されるのはなぜか。それはこれがあいまい共感に基づいた相互承認のためのツールになっているからだ。(コミュニケーションツールとしての正義参照)「差別反対」に反対するやつは、まともならいるわけがない。それなのにこう書くだけで「同じ立場である」という言明となり、他者からの承認が得られてしまう。 「反差別」と「差別者」との二者択一、プロコンであるかのような構造がつくられ、そのように問題がフレーミングされる。