あいまい共感
生れた時から母親の顔を見ない人が母という言葉を使う場合と、 いつくしみ深い母親に育てられた人が母という言葉を使う場合とでは、その言葉にこめられた内容は全く違って来るわけです、 その他、恋だとか愛だとかいう言葉も同様で、それらの言葉を皆一様に使ってはおりますが、その場合使う人によって意味している内容は一人一人違うわけです。 それに気がつかないで 「愛」という言葉には何か客観的な共通な意味があるものだときめてかかって安心している。 ところがしばらくたってその違いがやっとわかってくる。 その時になって 「あなたは私をだました」 というようなことになるのですが、 だましたのは実は相手ではなく、 「愛」という言葉は共通なものだと思いこんだこちらの錯覚から来ているわけです。 このようにみんなが自分が使い易いように、 言葉を自分の道具として使っているのです。 今述べたように鋸や愛や母親や、 その他あらゆる言葉がその人個人の言葉となってしまっている。 すなわちそれは国語というよりもその人の個人語なのです。 だから同じ言葉を使っておりながら、皆が外国語をしゃべり合っているようなものです。 本当の外国語ならわからないからはっきりしてお互に誤解は生じない。 ところが何か同じ国語をしゃべっていると、すっかり同じ言葉を使っているように思いこんで、そこに混乱がおこるのです。福田恆存人間の生き方、ものの考え方No.118