プロコン
特にSNS上ではすぐに「賛成か反対か」にされてしまい、中間がない。一方のスタンスに認められる点があると言うと他方から敵認定されてしまう。
オール・オア・ナッシングのものなんてむしろこの世界にほとんどナッシング。つまりオールオアナッシングの極端かつ強い主張をしていたら、その人が間違っている可能性が高いんだけど、なぜかそうした態度のほうが「正しい」とされる。 何かの問題があったとき、まず必ずその「何が」に対して対立し調停不可能な2つの主張、2つの主張だけがあるとされる。そして、そのどちらにもつかなければそれは中立しぐさだとされて非難されてしまう。 永井均.icon 何故か知らないが、どんな問題でも、まずは単純な二項対立を作り上げておいて、ともあれ相手を叩きたがる人が多いようだ。これは私には非常に不思議な現象で、そういう嗜好がまったく理解できない。永井均 永井均: / X 極端な意見のほうが目立つし、特にSNSのような場では拡散される。極端な意見は賛同者からも批判者からもともにシェアされやすいため。SNSでは批判者からすればその手の「ボケ」はツッコミできる素材でもあるので。
二項対立だと意見が全2パターンしかない。対して細かい論点ごとに賛同を検討すると2のn乗(nは論点の数)のパターンになるので、論点が4つあるだけで16通りの相違ができてしまい解像度が高くなる。解像度が低い人たちにとっては扱いきれない情報量なので、自分たちが理解できるところまで解像度を落とすしかなくなるが、それは「フルカラーの写真がピクセル化された白黒画像」くらいになってしまう。 低いのは解像度だけではない。処理可能な情報量が低い。処理可能な情報量が低いのに、情報が圧倒的な量で常時流れてくるため、明らかに処理スペックオーバーになってる。それでも処理しようとすると、一つ一つのトピックについて解像度を下げる=要求される情報量をtruncateすることで、できるだけたくさんの情報を処理しようとするため。
そもそも「正しい」ことを求めていない。正確性は二の次。コミュニケーションツールとしての正義を求めてるだけなので、他人とその話題で強くつながれればいい。他の意見との整合性なども気にならない。 他方で常にこの世の中に立場が2つしかない(たとえば「右」と「左」)だけだと、対立が終わってしまい、その後は話題が途切れてしまう。自分と同じ側に立った人間の中で今度はまたプロコンの対立、マルかバツかをずっと繰り返す。
派閥を「2つ」に無理矢理分けることで、バカな敵もまともな敵もどちらも「敵」として一枚岩にすることができる。バカな敵の言ってることを批判し、それを「敵」一般の主張であるかのように敷衍することができるので、バカを否定するだけで最も強い敵を倒すことができるため、自己満足感が高い。
相手をボコるために何でもいいとなると、同じことを相手が主張してきたときに対抗できなくなるため、主張はできるだけ穏当性を確保しておくほうがあとあとやりやすいのだけど、そういう発想がない。