50代は20歳以上下の異性の友人を持て
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為末氏は「日本人が最も苦手な多様性は、性別でも国籍でも宗教でもなく、年齢だと思います。年上や年下と友達になれない。年齢によってどうしても態度を変えてしまう。この思い込みから逃れられなければ、少なくとも年齢の多様性は獲得できません。年齢が違う人の気持ちがわからないままです」と私見を投稿。 正直、これがここまで炎上した理由が一見よくわからない。「一見よくわからない」というのは、多面的にいろいろおかしい上に、そのおかしさが実はさっとした見た目よりもかなり深いので、正確な言語化が結構面倒という意味なのだが。言語化してみる。 単純に自慢ウザい
まず「20歳以上若い異性の友人がいるんだぜ」という自慢が単純に「うぜえ」なのは間違いない。
為末大さんはおそらく、20歳以上年下の20代前半の女性のご友人がいるか最近できて、その世代のことをいろいろ教えてもらって嬉しかったので、ついあんなツイートをしてしまったのではないかと想像。密かに自慢したい気持ちが仇になった。炎上はまあ仕方ないが凍結されるほどのものだったとも思わない。 大野が言うように「若い異性の友人がいるぞ」で嬉しくなってしまったから、こんな投稿をしたのだろう。実際そうでなくてもそう解釈されて仕方ない話である。為末は明らかに鼻の下を伸ばしている。その「ツラ」のキモさが炎上に一役買っているのは否定できない。
実害を助長している
さらに別の問題もある。為末自身は「多様性」を身につける上で、年齢はもちろんのこと、性別についても(いわばついでに同時に)学べるのだから同性よりは異性のほうがいいだろうという意味で書いたのだろう。が、ここには「若い」が「異性」を修飾し、異性がまた「若い」の価値を高めるような別のコンテキストがあり、そこに為末の「ニヤニヤ」が重なっている。どういうことか。
簡潔に言うと、為末は(多様性を学ぶ上で)「若い異性には価値がある」と言っているのだが、それは現実に存在する(おっさんから見てエロい意味で)「若い異性には価値がある」とまったく同じ主張になってしまう。これは(主に)女性からしたら思いっきり実害ある話で「おっさんはどんどん若い女と「友達」になれ」「それこそが多様性だ」と為末のような人間に言われると、鼻の下伸ばしたおっさんが「なんで?多様性を学びたいだけだよ」とか「多様性について教えていただきたくて」などといって下心丸出しで女性に近づいてくるようになってしまう。実害しかない。燃やさなければ殺される(いやまじで)ので、燃えている。
多様性理解のパラドクスを理解していない
カンミ.icon 為末大のツイートを読んだけれど、多様性を理解してなくても友達になってもらえると思えるなんて、おじさんってすげえ自信満々なのな。どっからくるんだ。カンミ この指摘が正鵠を射ている。多様性理解のために友達になれというが、「友達」になるためには既に多様性を理解していなければならない。このパラドクスに為末はまったく無頓着であり、自覚がない。だからあんなポストをしてしまう。
多様性を理解していない人間が近づいてきたら、権力において弱い立場にある属性の人たちは、仲の良いフリをしたり、相手の言うことに異論があっても追従したりしなければならない。その「フリ」「追従」をもって「友達」になった「仲良く」なった、「友達」なのだから相手がよく理解できた、理解できたのだからここに多様性は実現されている、俺は多様性を身につけているのだからこの友情は押し付けではないという「既成事実」のループをつくられてしまう。
本来であれば、自分にとって理解できない他者に対し、そうした他者の他者性を抑圧しないように自分が変わること、いわば未知を未知としてそのまま受け入れること、受け入れられるように己が変わることが多様性理解なのだが、逆に理解できない他者の「未知」をまずは今の自分のままでも理解できる「既知」に変形した上で吸収してしまうことのほうが多い。残念ながらこの2つは、まったく逆のことなのに、表面上は似ているため混同されてしまう。(理解したら終り、既知と未知参照) 為末は多様性理解のために異性の年下と友達になれという。友達になることは確かに重要である。しかし「友達になる」のは結果としてそれを目指してそうなれるようにこちらが努力すべきことであり、そのためにも先に多様性について理解をしておく必要があるのであって、まず友達になっちゃえばそこからいろいろ効率的に学べるんで多様性も身に付くよ!といった単純なものではない。