差別する人間を見下したい
ポリコレ化する社会では「人を見下す」ことが原則一切許されない。他方で人間は他者を見下す性質、他者に対する攻撃性を本性的に持っている(『村のバカ』参照)。この状況で唯一「見下していい」相手が存在する。それは「特定の他者を見下してもいい」と堂々と主張する差別者や、倫理的に間違った主張を堂々とする人間だ。 ただ、それ〈引用者註:放射能が怖いという人たちのこと〉を糾弾する人々は本当に差別に憤っているのでしょうか? いや、彼らの多くは、「トンデモなことを言うバカ」を指差して笑うことによって、「自分たちの賢さ」をアピールするためだけに”バカ”を利用している、極めて偽善の臭いに塗れている存在に過ぎないように思えるのです。自分たちがいかに賢いかを表明するために、他者の失敗をあげつらう、まさしく第三章で触れた、片山さつき議員と同じ構図なのです。保守の本分 noiehoiep.119 いわゆる放射脳をバカにするのは自分が賢いアピールからなのだろうが、要するに「他者を差別しているのに開き直ってる」人間なら糾弾してもいい、という形で他者を見下している。 noiehoieはこれを生活保護の不正受給で個人を叩いた「片山さつき議員と同じ構図」と言う。であれば、多くの反差別で差別をしている人間を糾弾している人々も「本当に差別に憤っている」のか。片山と同じではないかと言うべきだろう。
①糾弾している内容が正しいことと、②糾弾の動機が差別への憤りにあることと、③それ以外にも糾弾の動機があることはすべて論理的に独立である。なぜか①②を主張することで③を否定したつもりになる人が非常に多い。
本当に差別に憤ってるから糾弾する。が、そこに「差別する倫理的に劣位の主体から自らを切り離し、自身の優越性を確認したい」という動機が入ってる可能性は常にありうる。
そもそも差別とは「構造的な問題」である。「悪意の有無」ではない。構造を理解するには一定以上の抽象的思考力、「常識」や「通説」を懐疑できる能力、歴史や政治に関する一定程度の前提知識が必要。差別をしている連中を糾弾するのは、これらを持っていない連中を「見下す」快楽と不可分である。
いや、世界をよくするため、差別をなくすためにやっているのだ。そう言うかもしれないが、①主張が正しいかどうかと、②正しい主張を特定のコンテキスト(たとえばSNSで知らない他人に向かって非常に強い言葉で全員で)でぶつけることに実効性や効果があるかどうかという話と、③それが倫理的であるかどうかという話はこれまたすべて論理的に独立。
っていうか、②の実効性で言えば「知らない他人から突然キツい言葉で罵倒に近い糾弾を大量に受ける」ことで相手に正しい理解を習得させる、間違いを認めさせることを期待するほうがどうかしてる。叱るのは効果がない参照。 たとえば女性差別に怒って色んなものを厳しく批判していた一部の「フェミニスト」の人達があっという間にトランス差別や障害者差別を始めるようになったりするのも、別に差別を無くして世の中を良くしたいから怒っていたわけではなく、できるものなら自分達が「差別する側」になりたかっただけで、現状そうできないことに苛立って怒っていただけなのかなとか、思わずにはいられないんだよな…(人それぞれだし決めつけは良くないです)snmj: - Mastodon ↑このように言いたくなる気持ちについては自分は強く共感するし理解するが、こうした物言い自身が「本当に差別をなくしたい自分」を確立するために、他者を「そうではない」外部として措定し、見下す振る舞いでしかない。「差別したい」という気持ちとさえ戦い勝てば、差別する側にいなくて済むかのようである。実際には違う。むしろ差別をなくしたい一心から他者を差別してしまうからタチが悪いのである。 差別は構造的な問題なのだから、差別したいとか悪意の有無とは無関係。となるとさらに進んで「差別をこの世からなくしたい」という認識や意識でめちゃくちゃ人を差別してしまうことは全然ありうるって、秒で演繹できるはずなのに、なぜかこのような理解はあまりなされることがない。
https://youtu.be/Z88dxdrMndk?si=Q-uAiqKcW6qaD0rb&t=1050
高学歴の人たちは人種差別、女性差別、LGBT差別性差別にはすごい敏感。だから自分たちは差別をしないと思い込んでる。自分たちは差別にどちらかというと敏感で反対している。リベラル。自由な人間だと思っている。これ高学歴の人。と同時に高学歴の人たちは低学歴の人たちこそ、人種差別や女性差別を平気でするような人だと思い込んでる。
しかし実験の結果、そういう高学歴の人種差別女性差別LGBT差別を憎んでいる敏感な人ほど労働者とか貧しい人とか太っている人ブサイクな人低学歴な人を差別している。