ポリコレ
差別的な表現をしてはならない、偏見を助長してはならないと言うと「そりゃそーだ」だけど、細かく考えていくと実は結構ややこしい。ポリティカルコレクトネス 差別的な現実を描くには差別的な人物や社会を描かなければならない
作中に差別的な信念を持った人間が出てくるだけで問題にされてしまう。
先に述べたとおり、ジョン・カッツェンバックの『ジャスティス』はいい小説だが、 残念ながら会話の共鳴力と現実感には欠ける。 それを獲得するために必要なのは正直に語ることだ。 これはハンマーで親指を叩いた人間が思わず発する言葉にまで当てはまる (作り物の物語を媒介にしながらも、 人間が何をし何を話すかということについて、作家は嘘いつわりのないところを語ることを読者に約束しなければならない)。 公序良俗軍団に気がねして、“糞ったれ、 を “まあ、 大変" に書きかえるのは、書き手と読み手のあいだに成りたっている暗黙の契約に違反することにほかならない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.200 私がヘンリー・ジェイムズやジェーン・オースティンのような作家で、品のいい上流の人士や知識人だけを描いているなら、 卑語や猥語を使う必要はなかっただろう。学校の図書館から締めだされることもなかったろうし、“おまえは炎熱地獄に堕ち、 どんなに大金を出しても一滴の水も買えないだろう、という原理主義者からの手紙を受けとることもなかっただろう。 けれども、 私は良家のお坊ちゃんではない。 生まれも育ちも中の下で、私がいちばんよく知っているのは、 そこで生きている人々である。 ハンマーで親指を叩いたら、 みな “まあ、 大変..ではなく“糞ったれ" と叫ぶ。 私はそいれてきた。 実際のところ、 そういったことに反発したことは一度もなかった。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.202 読者の反応が成功の尺度だとしたら、 『デッド・ゾーン』の冒頭のシーンは空前の大成功をおさめたと言っていい(これは私のハードカバーのなかではじめてベストセラー一位になった本だ)。 犬の虐待シーンが読者の神経を逆撫でしたのだ。 抗議の手紙が殺到した。 それに対して、私はいつもどおり自明の事実をあげて応えた。(a) グレッグ・スティルソンは実在しない。 (b) 犬も実在しない。 (c) 私自身ペットを足蹴にしたことは一度もない(自分のペットであれ、 他人のペットであれ)。ついでに、 私はさほどに自明ではない事実も指摘した。 冒頭でどうしても明示しておかなければならなかったのは、グレッグ・スティルソンが裏表のある、 きわめて危険な人物であるということだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.209 実際の日本社会が差別的であり、その差別を描いただけで「ポジティブでない」と批判されるのはおかしい。
いじめやミスジェンダリングでCW入れないとダメならハートストッパーでもどちらのシーンもある。 ハートストッパーにCW入れろと批判してる人はまだ見たことがない。
「PであるXがいる」ことを描いただけで「PでないXなど存在しないというのか」と批判される。
ゴーストバスターズ アフターライフで子どもを捨てた父親が、実はゴーストと戦うためだった、家族を巻き込みたくなかったという描写に「子どもを捨てたことを美談にするな」のような批判があった。 そういう親もいた.....という描写をするだけでNGなのか??
業界全体で表象の多様性が確保されるべきだとは思うが、個々の作品に、その作品テーマの内的必然性など一切無視してないものねだりするような批判には首をかしげてる。
moriteppei.icon 当たり前だけど、ポリコレが悪いわけではない。けれども、最近、ポリコレと言いつつ、ほとんど意味不明の文句としか思えないようなレビューや感想もたくさん目にする。それは自分の人権意識がアップデートできてないということかもしれないが、理解を深めたいと思っている。