ポリティカルコレクトネス
PCの利点というのは、 「どうしていいかよくわからないんだけれど、 とりあえずここは押さえておけ」みたいなところですよね。
元来「ポリティカル・コレクトネス」は、左派の間で党(共産党)が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動への皮肉や自嘲として用いられた表現だった。これが外部からの攻撃という様相を帯びはじめたのは、一九九〇年代初頭の合衆国においてである。一九九〇年一〇月、ニューヨーク・タイムズ紙に「政治的正しさという覇権の高まり」と題するコラムが掲載されたことを一つのきっかけとして、各種の新聞・雑誌やテレビ番組などにおいて「ポリティカル・コレクトネス」に関わる議論が展開され、九一年五月には当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領(共和党)がミシガン大学におけるスピーチで、「自分の考えを口に出す自由」を脅かす「不寛容さ」としてポリティカル・コレクトネスに言及する事態となる。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ (Japanese Edition) (p.37). Kindle 版. ここでも、婚姻平等に象徴される単婚的パートナーシップにもとづく私的領域に性的実践を限定する 「正しいゲイ」(ある意味では優れて 「ポリティカリーコレクトな」 ゲイ)が、 ストリートを生活と仕事の場とする貧困層やセックス・ワーカーを含む、 コミュニティのより逸脱的で「正しくない」 性実践の駆逐に動員されていた。二〇〇〇年代に「〈正しくない〉 性的実践」 とその歴史とが「アンチ・ソーシャル」なクィア性として再評価されたのは、まさにこのような状況を背景とするものだった(8)。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 48ページ 結果として、二〇一〇年代後半のトランスフォビアの高まりにあって、 「政治的な正しさ」のポリティクスは「道徳的な正しさ」 のモラルと袂をわかち、 「何が正しいのか」 に関する社会の理解を分断することになった。この文脈での「ポリティカル・コレクトネス」は、社会の多数派が承認する 「道徳的な正しさ」へとなだれこむことなく、むしろ 「道徳的な正しさ」 の差し出す安心への抵抗として機能した、と考えられるのではないか。そしてそのことによって「ポリティカル・コレクトネス」は、社会的少数派の生と権利との擁護という「政治的」目的に整合的に作用したのである。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 53ページ