傷つき
清水: 厄介なのは、 「トリガー・ウォーニング」というかたちをとることで、ある種の「傷つき」 を防ごうという話になって、「傷つき」の種類や性質を問うことなく「とにかく傷つけるな」 という対応になるケースが出てくる。その結果、 ものすごく転倒しているんですけれど、それこそクィア系とかフェミニズム系の研究者のなかから「学生がオーバーセンシティヴ (過剰に敏感)だ」という言葉が聞かれたりする。 「ジェンダーやセクシュアリティの問題に切り込む教育や研究の体制がようやく整いはじめたところだというのに、 学生の過敏さに私たちが巻き込まれて、 その領域をあらためて侵食されるのではたまらない」 みたいな話が出たりして。 そして今度はそれに対して、同じ分野の人たちから、「それをオーバーセンシティヴと切り捨てはじめたら、 私たちのやってきたことは終わりだろう」と。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 76ページ
清水: 実際にハフポストだのバズフィードだのの記事を読むと、なんだか危ういものも出てきている。 「傷つけちゃいけないんだ」 的なロジックが入り込みはじめているんですよね。 日本では、はっきりそれが最初から出ているけれども。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 78ページ
ハン: はっきりはわかりませんが、 ひとつ思うのは、 昔よりもコミュニケーションの総量が増えているじゃないですか。 身近なSNSとかを含めて。 そのなかで、誰かを傷つける可能性も高まっている。 学生とかを見ていると、コミュニケーションに対して基本的に怯えているというか、恐れているというか。 だから、 「傷つけたくない」というのはすごく理解できる。 この一〇年くらいで、若い人たちが差別の話なんかをよく聞いてくれるようになった印象があります。 みんな 「自分は差別したくない」ってものすごく思っていて、 とても繊細ですよね。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 79ページ
しかし、多様な人びとがともに生きるということは、問題がいっぱい起きる、 コンフリクトがしょっちゅう起きるということを意味します。 だから「コンフリクトをどう受け止め、どう対処していくか」を考えることのほうが大事なはずなのに、なぜか 「問題を起こさないように、コンフリクトを起こさないように」 することが目標とされてしまっている。 そして、 そのための手段として「他者に関する知識を身につける」 だとか 「他者に共感し、寄り添って、考える」 といったことばかりが重視されている。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 81ページ
「傷つく」 特権性というと、 ちょっと言い方が悪いですね。どう言えばいいんだろうな。 そのような気持ちを抱く当事者として、「マイノリティ性を語れるのは私だけだ」みたいなことって、議論を普遍的なほうに持っていくんじゃなくて、 個人の問題に、 気持ちの問題に限定してしまったというところはあるかな、と。 「優しくしろ」 とは言わないけど、 「これまで語れなかった私の痛みを語らせろ」 みたいなもの。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 64ページ
思います。つまり、 ある種の普遍的なモデルで権利を語るのか、 それとも、 そうではなく、 そこからこぼれ落ちるものとして、 「社会なり、 あるいは法なりで認められた言語で語ることはできなくても、この私の痛みはリアルだ」 という形式で語るのか。 たぶん、 その葛藤というのは、あらゆるマイノリティの運動のなかにあると思います。 なので、 「『傷ついたんだ』 という主張自体が無効だ」というふうに言うことはできないと思います。 ハンはい、できないですね。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 64ページ