差別
差別はそら絶対に悪いことだし、やってはならないことだし、した相手を根底から傷つけることだってある。けれども、他方で「日常にあふれている」「誰もがしたことがある」。このギャップをしっかり認識して丁寧に埋めていかないと現実的には減らすことが難しい。差別というものを含んだ、我々の、豊かな「言語活動構造」を描くこと。でも、その上で明確に差別にノーと言うこと。
すなわち人々は、「差別とは何か」「なぜ差別が悪いのか」を十分論議したり思考したりする場を持つことができないままに、差別は悪いということを受容してしまう。その時、「差別」という言葉はあたかも魔術的な呪文のように、その言葉を投げつけさえすれば、すべての批判や論争に終止符をうつことができるかのような力を持つことになる。人々は「差別」という言葉をさけ、「差別問題」をさけるようになる。フェミニズムと権力作用p.97 「差別問題」は系譜を持つ。それはいかなる社会現象もすでに存在する社会意識のうえにしか成立しないからであり、すでに存在するシンボル体系を利用してのみ成立するからである。しかし、同時に、「差別問題」は現代社会固有の問題である。それは現代社会にとって不可欠な装置であり、現代社会固有の質を持つのである。この二つは矛盾しない。フェミニズムと権力作用pp.99-100 そして第二に、私見によれば、この二つの「差別問題」の位置づけ、理論づけの混在こそ、「差別」をめぐる言説の空洞化現象を生み出すもっとも重要な要因であるからである。「差別問題」を遅れた意識、前近代的な偏見と考える立場からは、「差別」は自明に悪いという主張が導かれる。他方「差別」の定義においては、後者の理論が使用され、単に前近代的な偏見のみでなく、成績評価や業績判定も含めた、すべてのカテゴリー化、評価、尺度化、区別、差異づけが「差別」であるとされる。この二つの同時並存は、ほんのささいな区別だてやカテゴリー分けすらも「差別」であり、絶対的に許せないことという判断が下される。フェミニズムと権力作用p.105 それゆえ「差別は悪い」という言説はタテマエ的部分において支配権を確立すればするほど、実際の効力は喪失されることになる。そのことに運動側の多くの者は気づき、いらだちを感じている。ところがそれに気づいても運動側、差別告発側には、この事態の進行に歯どめをかけることができない。なぜなら差別は絶対に悪いという主張と、いかなる区別もカテゴリー分けも差別であるという二つの主張は、運動にとっては一種の制度であり、それに反する発言を自ら禁止するような言説の円環を作り上げているからである。
その円環を構成するもっとも重要なロジックは、「差別される者の痛みは差別する側には決してわからない」という主張である。この主張の内容が、差別される側にとって一つの体験のうえでの真実性を持つことは言うまでもない。ほんのささいな語句や態度の中に「被差別者」は「差別」をかぎわけることができるし、その痛みは被差別者にとって自らのアイデンティティの損傷を伴う。......しかしこの体験のうえでの真実が、「差別される者の痛みは差別する側には決してわからない」という主張として完結すると、それは差別する側の人間や第三者は、何も発言するなと発言禁止の効力を持つことになる。そして同時にそれは差別を告発する側にとっても拘束性となる。「差別は悪い」という発言を疑ういかなる主張も自ら禁止せざるをえない。同時に、いかなる「差別告発」に対してもその主張を適用せざるをえず、あらゆるカテゴリー分けは「差別」であるという主張に抵抗できない。
結果として運動側・告発側は、差別は悪いという主張の効力の喪失化が生じてきていることに対して、気づいてはいても、むしろ一層その傾向を強めるような働きしかできなくなってしまう。私が言説の空洞化、空まわり状況と呼ぶものは、こうした一種の自縄自縛的な構造である。フェミニズムと権力作用pp.107,8 まず、「差別意識」を遅れた意識ととらえ近代化要求としての「差別告発」を主張する考え方は単に「差別意識」を十分に近代化していないゆえに生じる問題にすぎず、逆に言えば近代化によって解消する問題としてとらえがちである。私は「差別問題」をこのように位置づけてしまう理論は、「差別問題」の現代社会において持つ位置の重要性を見誤らせるものであると考えている。
そうした位置づけは第一に、「差別問題」に対するもう一つの理論、すなわち近代的意識こそ「差別」を生み出すという理論の持つ含意を自らの理論においては全く明らかにできない。フェミニズムと権力作用p.109 しかし、この私生活領域こそが近代社会システムにとってのかくれた前提である以上、それは「安んじて労働者の本能」にまかせておかれはしなかった。次世代の産出と養育は何としても果たされねばならない課題であったのだから。しかしそれはあくまで個人の自由として実現されねばならなかった。それこそが近代社会システムの正当性イデオロギーであったから。 それゆえ女性身体は、近代におけるもっとも中心的なイデオロギーの場、闘争の場となった。すなわち女性は、自らすすんで、私生活の領域に追いやられた次世代の産出と養育の役割を担わねばならない、しかもそれゆえに公的領域における不利益を被ることを正当として承認せねばならない位置におかれたのである。この女性の位置は、自由という語義と平等という語義に対する瞞着を内包するものであった。フェミニズムと権力作用p.113 それゆえ、この近代社会システムの内部において、ある種のカテゴリーに位置づけられた身体は、欺瞞的な位置におかれてしまったのである。すなわち、近代社会システムの正当性装置は、その流通限界を暗黙に指示しながら、表面的には全面的な正当性として成立した。この二重の意味指定のはざまにおかれてしまった人々が被差別者である。 それゆえ、差別意識を遅れた意識、前近代的な偏見と位置づけてしまうのは全く不十分な理論なのである。なぜならそうした理論は、差別告発の言説自体がしばしば近代社会システムの正当性イデオロギーの境界を侵犯してしまうことを全く理論化しえないからである。フェミニズムと権力作用p.114 逆に言えば、正当化されない差異化装置は、否定されたのではなく、私生活領域、あるいは個人の自由意志の内に切り離されたにすぎない。それゆえ、「差別告発」運動は、この恣意の領域に介入せざるをえない。しかし私生活領域、個人の内面性領域の自由は、それ自体が近代社会システムの正当性装置であり、むしろその領域の完全な私化を前提とする諸言説を正当化する。それゆえ、「差別告発」運動側は、これらの私化された諸言説との闘いを必然化されるのである。
この結果「差別告発」運動は、さらに戦略を強化させ、私生活領域における行為を「差別」行為と確定し、その背後に非難するに足る背徳性を措定せざるをえなくなる。すなわち、他者のある種の私生活、生き方に対して過度の非難を加えたり、人格、性格のおとしめまでもせざるをえなくなるのである。
しかし、それらは逆にこの主張の違和効果を強めてしまう。私生活領域における特定の行動に非難するに足る背徳性や悪意を指定することは、その強引さばかりが目立つことになり、運動の呈示するステレオ・タイプ化されたイメージをむしろ強化させてしまうのである。
実際、この「差別告発」側の行う、近代社会の正当性イデオロギーへの侵犯は、「差別」問題が単に前近代的意識の残存の問題ではないことの証拠である。しかしそれは、近代主義自体の問題ではなく、近代主義を正当性装置とする近代社会システムの持つ二重性の問題なのである。この二重性の罠にはまってしまった人々が、被差別者なのだ。フェミニズムと権力作用pp.116-7