コミュニケーション不全症候群
楽天Kobo電子書籍ストア: コミュニケーション不全症候群 - 中島梓 - 9784862398086
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商品情報
著者 :  中島梓
発売日 : 1991(復刊 2017年12月25日)
え,1991年ってソ連崩壊と同じ年なんだ・・・一気に「歴史」に思えてきた・・・そうか・・・
出版社 :  ボイジャー・プレス
商品番号 :  9784862398086
対象読者 :
孤独だったり、悩んだり、苦しんでいる人。生きづらさを抱えている人。
目的 :
自分もかかえている「コミュニケーション不全症候群」 について分析したり考察したい。
個人だけの問題ではないと認識することで、よい結果につながるかもしれない
「旧世代」 の人間に対して「新世代」 のことを伝え、「新人類」 とはなにかを考える
問題意識、新規性 :
自分が、今生きづらさを抱えている。それを解決したい
世の中や生活が、だんだん狂ったものになっている気がする。
商品説明
1991年に発表され、若者の共感と批評家からの絶賛を浴びた書き下ろし評論が電子版として復刊。
栗本薫の筆名でグイン・サーガ、伊集院大介シリーズほか数多くのベストセラーを生んだ中島梓が、1991年に発表した書き下ろし評論。おタク、ダイエット、女性による男性同性愛への関心などを扱い、変容する社会において危機的な状況におかれた自我のあり方を、自身も拒食症・過食症に陥り、また「真夜中の天使」を嚆矢としてやおいと呼ばれるジャンルを拓いた体験を踏まえつつ描いた問題作。刊行当時若者の共感と批評家からの絶賛を浴びたものの長らく絶版となっていたが、いま電子版として復刊される。解説・藤本由香里。
【目次】
はじめに──私はなぜこの本を書こうと思ったのか
第1章 コミュニケーション不全症候群
第2章 オタクについて・1
第3章 オタクについて・2
第4章 ダイエット症候群・1
人生を狂わす名著50で紹介.
kana.icon この本,決めつけがあまりに激しいし,差別意識みたいなものが透けて見える記述もあるしエビデンスないまま話してるから話100分の1くらいで読んだほうがいいと思う。さすがにkana.iconが見ても偏見ヤバ、と思う。
時代の成約がかなり大きい。新人類とか言ってる時代だから。
「コミュニケーション不全症候群」 とは?
現代とコミュニケーションは切っても切り離せない問題である
そして、現代社会では、「人々が、まったく自分の周りに人間が、大小さまざまの人間がいるということが、見えていない。意識されていない。まったく問題外」 なのである。
たいへん無自覚だからこそ、こわい。
とにかくひどく人に突き当るお母さんがいるのである。つきあたるというか、なんというかまったく私とかほかの人間などこの世の中に存在していない、というようにふるまっている。うまくいえないのだが、つまりバックしたりとか方向転換したりするときに、必ずそこに誰も邪魔者はいないことをまったく確信して、というよりも邪魔者などというものはこの世にありえない、というような動き方をするもので、いちいちうしろの人の足をふんづけたりつきあたったりするわけだ。これは必ずしも、注意して見ていると私一人にそういう態度をしているわけでもなんでもない。それならばただのいじわるか、要するに私を気にくわないということだが、そうではなくってだれにでも同じことである。つまり彼女はまわりに人がいる、それもいっぱいいるなどと、夢にも気付いていなかっただけのことなのだ。
kana.iconこの感覚はけっこうわかるなー.
個人的な感覚としては,いちいち周囲の人間を知覚していると頭がパンクするし精神にストレスだからあえてシャットアウトしてるって感じ.
kana.icon満員電車とかに慣れてしまうと、こうなりがちな気がするけど
そして上のような例の場合、あいてをよく知っている人だと認識することで解決する。「彼女が相手を認識することによって、相手ははじめて彼女の知覚のなかに存在したのである。」
このようなタイプの人間はけしてめずらしくない。
その人はただ、自分の認知している対象をしか、人間らしい存在として認めることのできないような制震構造を持っているだけであり、いや、もともと人間というのはそういう一面はたしかに持っているのだが、そこをカヴァーして他の人間というものへの共感をつなぐのが、教養とか想像力とかいったもののはたらきであった。教養や想像力は誰もが持っているとは限らないものである。そこで人間たちは円滑に暮らしてゆくために、たしなみとかつきあいとか礼儀作法というものをあみだした。礼儀作法とかつきあいの常識といったものは、教養と想像力を持っていない人々でもちゃんと見知らぬ人間やそんなに親しくない人間と円滑に社会生活を共にしてゆくための伝統的な知恵なのである。道徳とか修身といったものもそうだ。知らない人にでも親切にしましょうとか、見知らぬ相手でも老人は大事にしようとか、小さい子供は人の子でも我が子と思えとか、そういう道徳や修身の徳目は、なにも有難いお説教のためにあったのではなく、なるべくみんなが平和に円滑にやってゆけるための知恵であったにすぎない。
kana.icon ふむ、この人の定義だと、異質な他者への共感の緒となるのが「教養」 らしい。
kana.icon 自分は最近はこういう気持ちになってきた。つまり,面倒に行き当たらないために礼儀ちゃんとしよーみたいなこと
マナーや道徳は友だち幻想 ーー人と人の〈つながり〉を考えるでの、異質な他者とうまくやるための方法のひとつな気がする。
一番現代の人々の特性だといえるのは、こういう人々が全員、ようするに自分だけまったく批判の対象外、という絶対の確信にのっとってふるまっていることで、もしかしてこれはひとさまのご迷惑になっているのかも、と周囲をちょっと見回してみればわかるようなことを、とにかく誰一人として考えないようにしているとしか、私には思えないのである。
アグネス・チャン論争などでは、知識人であっても、誰一人として相手のいうことを耳にいれようとはしていなかった。むしろいかにして相手をやっつけるかに情熱がむなしく注がれていた。
kana.icon こういうのは今でもあるね...
他の存在様式にたいする想像力の欠如
自分の立場というものを絶対の、唯一無二のものと信じることができるから、そのうえにたってこれほど力強く他の人間にひどいことがいえるのであろう
「世界中にありとあらゆる社会があるのだから、これが絶対であるというような唯一無二のものなどなにも存在しない」
この世界にはいろいろさまざまな立場の人間がいるということへの人々の、汎時代な想像力の欠如
コミュニケーション不全症候群の典型的症例は、たとえば
拒食症や過食症、麻薬、暴力、性犯罪、精神障害、など
kana.icon うーん、例にあがっていたなかでマシなものだけピックアップしたけど、これは後進国や発展途上国にも存在する問題だと思うな。同じかたちではないかもしれないけど。(実際著者は、「先進」 諸国のようには存在していない、と、まったく存在しないのか/あるいは存在するが同じかたちでは存在しないのかどちらともとれる書き方をしているけど、書きぶりの問題で、「先進国特有の問題」 として扱いたがっているように見えるから信用できない。)
コミュニケーション不全症候群 = 他者への想像力の欠如こそが現代であると著者。
では、それはなにによるか。
距離の問題
物理的な距離。人口密度や、満員電車
精神的な距離。受験戦争、出世の競争など
適応のありかたとしてのコミュニケーション不全症候群
しかし、問題がないわけではない。
とはいえ、
それはもしかしたら現代におけるベストであるのかもしれない。しかしまた、それは現代における、生き延びるための希望でさえあるのかもしれない
chapter2, 3 おタクについて
正常、のワク組があまりに固く狭く出来上がってしまうところに、かえって異常の芽が育てられてしまうこともあると思う。
kana.icon 今は「かくあるべし」 が強すぎてそれも問題だよねというはなしがされる。(が、これは抽象的なのでおいておかれる)
しかしそのとおりだと思う.友だち幻想 ーー人と人の〈つながり〉を考えるで言ってたみたいに,最低限これだけは守るべき!ってルールに絞ったほうが,結果的にうまくいくんじゃないかって
「コミュニケーション不全症候群」 と言われたときに想像されるのは、(宮崎勤的な) 「おたく」 であるだろう
kana.iconしかし著者はここで「つってもおたくがなんなのかお前らわかってないジャン」 的なことも言っている。そんでもって「正しいイミでの」 オタクを定義した。そして、注意すべきはその「オタク」 は現在のオタクとはぜんぜん違っているということ。あくまで時代の制約あり。
で、その「おたく」 というのはお互いの呼び方から由来するものだった
この呼びかけの本質は、個人個人ではなく家単位の関係を暗示しているというところ
あえて、その呼びかけをつかうということは...
お宅、という語が示すものは、その関係の個人的でないこと、家単位の関係、自分のテリトリーをしょってここにいるのであるということの主張である。おタク族たちは、相手をおタクと呼ぶ事によって、君、僕、という個人的関係をまず相手に対して暗黙のうちに拒否しているのである。
・・・
彼等はまず、だれかれの区別なしに、話しかける相手をおタク、と呼びかけることによって、相手の名前を呼ぶのを拒否したわけである。それと同時におタク、という呼びかけによって、彼等は自分の陣地を守るんだぞ、という態度を明らかにした。おタク、つまりあんたの家、に呼びかける事は、自分の家からの呼びかけである。
で、でっかいリュックの中身は自我そのものだ、という
kana.icon 個人的関係を拒否しているかはともかく,「よそはよそ,うちはうち」だからほっといてくれ!という感覚はなんとなく今の人も持っている気がする.
とりあえずここで著者は、コミュニケーション症候群という現代の特性に、最初に適応/過剰適応したニュータイプとオタクを定義する
コミュニケーション不全症候群が前提であるというところから出発するパーソナリティ
「自我はもっているのだが、それは外界からの影響を受け止め、消化し、反応しても損なわれないで保っていられるほど強靭ではない」 「自我の外殻の代用品として、いろんな物に執着する」
kana.icon これはなかなか身につまされるな。普通の人でいいのに! とかまじめな会社員とかのいわゆるサブカルもこれって気がする。
あれ、むしろ花束みたいな恋をしたとかは、ここから自我を確立するまでのはなしだった?
ちっともふしぎでもなければ、また異常なことでもない。彼らが生きているこの現代社会、ことに現代日本社会は、もうかつてのような形の、いってみれば人間関係を最大の基本形とする、基本的に「知り合い」 どうしから成立しているむら 社会の生き方をもっていては生き延びることができない、そんな社会なのである。
テリトリーがなく、個人であることができない。社会は、単なる巨大難民キャンプとなった
自我、というのは、結局自分の場所のことなのであるから、物質的にどこへいっても自分のテリトリーを確保できないということは、精神的にも自我の位置する場所を見いだせないということである。
kana.icon ふーん。これおもしろい。
個人的生存の限界。精神的なものではなくて、物理的な生存の根拠。
「生き延びるための殺し合い」 が起こっている
恐怖、おびやかされている感じ。
とくに生存の限界を感じやすいのは、
弱者
自分の居場所を確保する能力が低く、おしのけられ疎外されやすい→そして、能力拡大チャンスもない、という悪循環
現代の大きな事件は、極限まで追い詰められた弱者からの、最終的な形態になってしまった大反攻である
悲劇なのは、こういう社会のなかにあって、はじめから弱者としての生をうけてしまい、その後もひきつづき弱者であるようにレールをしかれてしまって、それでもなおかつどうしてもこの社会の共同幻想を維持するために生きてはゆかなくてはならない個体群である。かれらにはおしのけられたらおしのけかえして自分の場所を確保するだけの基本的な力がなかったのだ。だが社会は彼らを生きなくてはいけないとする。しかも社会はかれらが生きるためにはなにもしてくれない、場所を確保するのは自分でしろ、というわけだ。だがかれらにできないのは、まさにその場所を確保することなのだが!
kana.icon弱者男性を思い出すな
著者はここでの例としていろいろ挙げるけど、新興宗教や右翼団体の話をしているのはおもしろい。こういった団体は「現代という水槽のなかに、ささやかな囲いをつくってそのなかに疎外されかけたものを保護してくれる」。
またここでおたくも再定義。「オタク族はようするに「自分の場所」 を現実の物質世界に見いだせなかった疎外されそうな個体が、形而上世界のなかに自分のテリトリーを作り上げることで現実世界の適応のなかにとどまったのである。」
kana.iconインターネット上空間は巨大だから、いまやオタクだけでなく形而上世界にテリトリーを作っているかも
「本当の適応ではなくて二重の適応、実際にはない<自分の場所>を、虚構の、形而上世界の中においてそれを自我の根拠としたうえでの現実への適応である」
→この特徴をもっているかぎりそれは、どんな表面上の形態をしていようとおタクである
なぜ、フィクションか。
自然のなかにも現実社会のなかにも居場所を見いだせなかったから、自分たちで生存空間を作り出している。
そして、コンピュータやまんがは「私物化」 できることも重要
無限に私物化することの可能な虚構空間
kana.iconがビミョーな議論だなと思うのは、「おたく = 創造性がない。自ら創作をしたり、私的幻想(狂気)に入ったりできない」 と著者が言っていること。
二次創作はべつに「とりついて」 いるだけではなくて、「新たな創作」 でもあると思うけど。
「なんらかのレベルに達していることで社会に受けられている」 ことが重要ということなのだろうか。つまり、社会に受け入れられていない創作 = 創造性が不十分だと、言っているのだろうか
しかしこの社会ってなに?
二次創作も、一定の「社会」 で受け入れられているが。
→「商業ベースになってゆくための現実の社会との一致がほぼ完全に欠落している」 ことが問題だと、先のほうで言っている。
kana.iconとはいえやっぱり、商業と同人のあいだの差異は今ではほとんどなくなってるじゃんと22年の自分としては思う
疑似社会としての暴走族, ヤクザ, フィクションの世界
かれらは「オタク」でもありうるような作者の作品にとりついたのであり、その作品の虚構空間の「おタク性」とでもいったものに無意識に反応したのであったとみてまずまちがいはないだろう。これは現存の人間でもまったく同じで、たとえばそういうおタクたちの「対象」になりやすいのは、アルフィーとオフコースであり、谷村新司やさだまさしやユーミンこと松任谷由美はダメである。ユーミンについては、まあ女性であるからという見方もできるのだが、アルフィーとオフコースと、さだまさしの違いということになると、これはなかなか通と自任する人でもわからないだろうし、それが分かるならばその人はおタクであるからわからない人間の感覚はわからないということになってしまうだろう。いうならば、元祖おタク及びその周辺民族というべきいろいろな種族のおタクたちは、フィクション作品にせよ実在の人間、タレントなどにせよ、またコンピュータ、ゲームにせよ、「第2次的虚構を容認ないし黙認する」要因のあるものだけを契機として選んでいるのであって、
kana.icon自分の感覚としてはわかる!!!という感じがあるなー
ユーミンはダメでアルフィーはいいんだよね.谷村新司もさだまさしもダメ.わかる・・・
kana.iconこれは,戦闘美少女の精神分析でのディズニーとジブリ問題と同じかもしれない
個人個人ではもうひとりの、現実を象徴する他の存在に向き合うことができない
コンクリート事件やホームレス襲撃を例にする
車 = 自我の外殻であり、バリヤーであるという
かつての教養主義の時代には、ひとりひとりの個人個人がそれぞれに紆余曲折をしながら身につけていった「自我」というものを、そのように能率悪く個々に作りあげるかわりに、あるいは何人かのおなじような仲間の自我との集合体として、あたかもサンゴのような共生の生物のように作りあげ、
kana.icon嘘くさいけど,まあ愉快ではある
これはトーンとしては非難の文脈で言われているけど、個人的には共生、いいじゃんと思うけどね。
仲間と小宇宙にこもってしまうことが問題ということ?
ここで、自分たちの生存様式に満足し、適応し、そっとしておいてくれさえすれば幸福なおタクたち。自分たちの「仲間」 と「小宇宙に閉じこもるものがおたくである」ーと、→「他の存在」 を感じないー自分ないし自分の仲間たちと同じ、生ある存在と「決して感じない」 ことによって幸福を維持する、序章の「他人がみえないお母さん」 とつながる。
A: 「仲間である人間」と,B: 「仲間でない人間」という2分法
繰り返しになるが人間にはもともとそのきらいがある。だからこそ、「異人」 の排除や戦争が起こる
そしてオタクたちは、これを変容させた A: 「仲間である非・人間」 とB : 「仲間でない人間」 にわけている
おタクにとっては、「人間よりも非人間、機械のほうを選ぶ」 のであり、「さまたげる人間はすべて<敵>だ」 と著者は言う
kana.iconあれ、いままでは「おタク」 として宮崎やコンクリート詰めを非難してきたのではなかったのか? こうやって進めるなら彼らは「おタク」 をやろうとしたら失敗したただの人間、なのでは?→異物にたいして攻撃してしまう、うろたえるという話?
→著者は、機械を人間より優先させる→ヒューマニズムが介入できない→危険である、と言う
kana.iconほんとうに、機械を優先させるとヒューマニズムが介入できないのだろうか。人間関係ができない→ヒューマニズムがないのか?
ただ私たちはつねに、自分の所属しているグループと個人としての自我を同一視する視点から逃れられないから、そういう現象を、自分自身に固有であると感じ取り、それぞれの歴史的、地理的時点において、自分を被害者か加害者のどちらかとして位置付けてしまう。そのために、そういう現象を人間にとって普遍的なものであるとは考えられず、あくまで自分(と自分の属するグループ)についての特殊事情としてしか考えられなくなっているのである。
kana.icon進撃の巨人かな???
kana.icon昨今の、フェミ・アンチフェミ問題?
chapter4,5 ダイエット症候群
著者は、2, 3章では「女オタク」 のことは念頭に置いていないという。むしろ、少年/青年のおタクと制震構造が近いのは、「ダイエットをする少女/若い女性」 である。
女オタクは、人間との交流をむしろ非常に重視しているからというのがひとつの根拠
kana.icon たしかに宝塚・やおい、愛の読み替えでも人間関係のためのBLコミュニティというのがでてきた
ダイエットは現代特有のものであるし、「選別の論理」 が男の子をオタクにしたとすれば、女の子はダイエットに走る (以下でメモあり)。そして、ダイエットは適応不能への過剰な恐怖によって引き起こされている。どちらも疎外というキーワードが一致。
そしてまず、コミュニケーション不全症候群のひとたちというのは、「現実よりももっと信じるものがある。また、人間よりももっと身近にかんじられるものがある。」 というところがあるということ。それは共同幻想でもありうる
少女たちはたぶんおタクの少年たちよりももっとせっぱつまった状況に置かれている。少年たちはおタクになることで、自分を自分の受入れられない基準によって切り、拒否し、あるいは落ちこぼれにしてしまう現実の規範に背を向けた。男の子には一見そんなものは、つまり「選ばれる側」としての基準などは女の子ほどに厳しいものではないかのように見えるが、ほんとうはそんなことはない。むしろ男の子にはどこにも逃げ場がない。学校、成績、人望、外見、背の高さ、性格の明るさ、ナウさ、なにか特技があるかどうか──なにもかもが少年を厳しく判定し、選別し、「お前はAランク」「お前はBランク」「C」「Cの下」などと選り分けて行く。社会がそうするだけではない。学校もそうする。家庭もそうする。そして女の子たちもまた情容赦もなくそうする。現代社会はそういう選別とランク付けで構成されている。民主主義、平等、などということばは理念として掲げられ、そんなものはないではないかと抗議することも許されないままで、実際の無情な選別にさらされたまま、少年たちはその選別を受入れるか、それとも選別される対象であることそのものを拒否するかの瀬戸際にたたされる。
・・・
自分も社会も悪くないとすれば、どうすればこの現実と妥協点を見出し、現実を受入れ、自分を受入れさせることが出来るのか。おタクは社会をも自分をも「悪くなく」する、第3の解決法を見出す。それは社会は社会としてそのまま存在させ、自分は自分でそのまま存在し、そうして社会には自分を選別させておいて自分は自分のもっとも満足できる別の世界に二重に存在することにほかならない。そうすれば自分を変える必要も社会を変える必要もないまま、双方の満足する二重規範を持つことが出来る。
・・・
ところで、女の子には逃道がない。逃げる先もない。おタクはおりることができるが、かわいそうな女の子たちはおりることさえできない。女の子がおタクにならないのは、何も鈍感だからではなくて、おりることがはじめから女の子にはゆるされてないからにすぎない。
・・・
女の子がおタクになっても、社会は女の子を放免してはくれない。男の子のおタクと違うところは、社会のほうで女の子を追いかけてくる、というところなのだ。
kana.icon おもしろい話をしている。美人な人間の女性が(フィクション内であったとしても)肉体的に強いということはありえないという話。たとえばラムちゃんや、ほぼフィクションとしてのプロレスラー、スーパーウーマンなどを挙げる。
たしかに、こういう傾向はあるよね~。アベンジャーズにしたって、女性スーパーヒーローを人間として描いているかと言われるとあやしい。
クィア系の作家はたとえばマトリックスなんかでマッチョの女をやってるかな。
おタクは背を向けることでそんな選別のなかにいなくたっていいのだ、ということを示す。おりてしまうことで、おタクはおりるなんてとんでもない、おりるのは死ぬときだ、と思い込んでいる人々に衝撃を与える。おりることもできるのだ、と知ってしまったら、人々はもう何を信じてよいかわからなくなる。だから人々はおタクをいっそう隔離し、単なる落ちこぼれ、ないし統合失調者として扱っておこうとする。
kana.icon そうか、「おりる」 と共同幻想が破壊されるから人々が嫌がるのか。
まあ、kana.iconは、異性愛者あるいはバイセクシュアル男の性の対象としての女はすでにおりたが、多くの場合そこからおりると文句を言われる (攻撃される)現象にはこういうのがあるかもね。
ダイエットにとりつかれている女の子たちはいかに苦しんでいるか。
なぜダイエットにとりつかれるのだろうか。
このような苦しみはそして誰にでも無縁ではない。誰しもが、「れっきとした」 (過食症などの) 患者へと変貌をとげてしまう要因を持っている
体重や外見で価値がきまるという価値観の受け入れ
当然である。「社会が<本気で>信じ込ませようとつとめてきたのだから」
そのうえ、それによって勝者の地位を得た人は、それを失いたくないからこそその強固な共同幻想を必死で守ろうとする
、彼女がかつてたいへん太っていて、非常に劣等感があり、きびしい食事療法で20kgの減量に成功した女性で、そのことを本にして有名になった人であるということがわかったのだった。そこで私の考えたのは、彼女のパーソナリティが異常に外見と体重と美容とに固着しており、人間をたぶんまず自分よりもやせているか太っているか、そのことでしか見られないのだろうな、
・・・
自分の「勝者」であるという確認を、それこそ初対面の相手にであれ、どんな時でもくりかえさずにいられない。それだけがたぶん彼女のアイデンティティをささえている根拠であるのだからだ。
kana.icon これ、勉強になるなあ。
勝者であるだろうということが、アイデンティティになってしまう。
幻想のまんなかにあって、それが幻想だということに気付くのはきわめてむずかしい。
こういった症状のすべては、社会が「とるにたらぬ者」として最下層においた、「無名の若い女の子」が、その社会からの規定から自己を救い、なんとかして自分自身を社会のなかに居場所のある、それも社会から進んで迎えられ得るような存在へと脱出させなくてはならないという苦闘が原因だ、といってよいのである。
・・・
何もモデルが針のようにやせているから私たち女性が体重の軽いほうがえらい、というまちがった観念をうえつけられるわけではない。逆である。社会がモデルをとおして、他の成員に、「この社会の共同幻想はこのような価値の観念をこの社会の成員に与えたいと意志している」とメッセージしているのである。
社会によって受け入れられる存在はこういうものですよ、と、モデルを示す。
たとえば、アメリカ白人モデルが肌を焼いたり、パーマをかけること、黒人モデルが髪をストレートにすること、あるいは背の高くて痩せたモデルがしきりに外国風の格好で登場するとき(つまりこの場合は、その社会を西欧化へ近づけたいのである)
kana.icon めっちゃ勉強になる!!!! 今度からこう考えることにしよう!!!!
モデルケースと偶像崇拝を利用して伝えられる社会からの意志のメッセージに、どうしてその社会の内部でしか生きられないその社会の成員、しかもそのなかのもっとも弱い成員である階層が影響をうけずに──というよりそれを無視したり軽視したりするだけの自分を保ち得るだろう。
kana.icon ああ、これはそれこそ「セックスしたがる男」 とかにも適用できそうだ。
社会に受け入れられたいところからはじまる病理。
ほんとうに自己に確信を持てるもの、ほんとうにエキセントリックであるもの、ほんとうに自分と社会とを対置したとき社会よりも自分を優先すべきだと思えるものはたとえ若い女の子であっても、たいへん太っていようがそのことを周囲からさんざんひやかされようが、そのように動じはしない。彼女の自我は社会からの強制から成立しているものではないからだ
→世間の評価と自分の評価のくいちがいによるムカつきがダメって話ね
約束の地は、他人、ことに同性の傷といたみ、あるいは累々たる死骸の上にのみ、築かれうるものなのだ。なぜなら、競走社会、選別社会のなかにおいて、勝者であるというのは、他の敗者の存在によってだけ保証される、血まみれの勝利でなくてはならないのだから。
kana.iconまじ、これ~アンチ競争主義
スリム、つまり無駄のないこと、若いこと、美しいこと、健康であること、新品であること......それはすべて、いってみれば人間の価値ではない。少なくとも自由で誇りある人間であるために、若かったり、痩せていたり、美しかったりすることは別に必要条件ではない。それは奴隷の、商品の価値である。売り買いされる商品、品物であるからこそ、新品のほうがセコハンよりも、新しいほうが年式の古いものよりも、性能のよいもののほうがわるいものよりも、見た目のよいもののほうが悪いものよりも、高く売れる。高い定価がつけられ、皆に欲しがられ、よく売れるのである。
kana.iconアンチルッキズム
とにかく、どれほど悲惨な状況でも「生きること」を命じ続けられるなかでは、過剰適応を強いられることになる。それは社会に対する過剰な適応願望かもしれないし、自分の宇宙に閉じこもることかもしれない。
chapter6 病気の時代
自己愛であるのではない。彼女たちにとっては逆に、「みんなからかわいがられる」 いい子、「だれからも好かれる」 子であることだけが、彼女の生き延びるための方法であったというのにすぎない。彼女はまったく自分を愛してなどいないのである。自分で自分をあいすることができないからこそ愛してくれる人を求めなくてはならない。
kana.icon すごい!! 「恋人」 が必要だと思っていたころの自分がまさにそうだった。
私たちは「見られること」 に欠乏している。
見られる、とは、他の人間の興味を引き付けるということ
他の人間ーそれこそが、現代の私達の真の欠乏なのである! 私達はもはや食物のためにも、力のためにも動かなくなった。ただ私たちは「他の人間」ー私たちにとって社会そのものであるところの「他の人間」のためだけに苦しむ。他の人間を求め、他の人間によって保証されるために物事すべてに対するようになってゆく。
承認欲求ってこと?
しかし、他の人間の好感を得るための戦い?
法則性がなく、何が求められているか不明瞭である。実体がない。
現代において、人々は対人関係のなかでのみ生きている。対人関係のうまくゆくことが英雄である。対人関係に対して勝者であり、「だれにでも好かれ」 、いつも好感を持たれること、......多くの他人から好感を持たれれば持たれるほど、その個人の個人としての居場所は大きくなる。いまや人間にとって、最後の王国は他の人間の心のなかにしかないからなのだ。
......
量の論理が私達を支配するのはこのようにしてであり、選別がこれほど私達にとって重大であり得るのは、他に私たちには居場所がないからだ。
kana.icon なるほど、「モテたい」 人のことを現在の自分は理解できないが、過去の自分もそうだった。それはこういう理屈だったのか。
場所がないから、概念上の場所に居場所を求める?
見ることを否定的にうけとめつつ自分を見られる側に感じているものは、「見られたくないのに見られる」 という統合失調症的なシチュエーションにおかれることになり...
kana.icon まさにkana.iconじゃん!!!!!
じゃあどうしたらいいの????
chapter7 僕の夢は少年を...
BLについて。こちらも現代性に基づくものである。 = モラトリアムシンドロームの例として提示される。
父の不在、ないしは、父への固着そして、母の不在
ギムナジウムがぶたい舞台であったり、そして同性同士の恋愛物語であることは、結果である。
無意識がひかれてゆくものを追い求めた結果
では、どういった心理なのであろうか。
→まず、存在を拒否されているのは、女性、少女
逆に、吉屋信子作品のように、男性で成立するものもある
これらはどちらも、実際の女性社会が男社会の論理に支配されるものであるという現実の存在を背景にしたロマンである
とくに、男性だけの世界というのは、「男性と社会のまなざしの存在しない場所ーそれと同時に、まなざしにさらされる自分たちの存在そのものの存在しなくなる場所」 を求めた結果であるということはできないだろうか
→しかし、JUNE小説では別の流れもある。
男性の愛を、女性と少年で奪い合う構図
→エレクトラ・コンプレックス?
chapter8 美少年なんか怖くない
少女の輪郭とは、「...でない」 ということである。存在それ自体が「負」 の意味である
社会の成員のなかで最も弱者であると知っている少女たち
「価値ある商品」 となるか
社会の秩序に背を向け、孤立していくか
少女でなくなるか
JUNEに心を寄せる少女たちの描いたり、あるいは愛したりする世界のなかには、少女たちの居場所はあらかじめ失われており、そのなかで行われる恋愛には「異なる性」 である相手の性は存在しない。自分の存在しない宇宙のなかで、彼女たちは影となり、もはや自分自身が「リング」 ーないし人買いの晒し台にのせられるおそれはまったくなしに、人と人をつなぎ、あるいは人に人を欲させる愛という見知らぬ素材を存分に解剖したりいじりまわしたりすることができる。
彼女たちの夢見る愛情は、ほとんど常にありうべからざるような強烈な執着と、これまたありうべからざるほどに強い性的欲求とによって成立しなくてはならない。その世界のなかでは、極端にいえば「セックス本位制」 とでもいったものがまかり通る。そのなかでは性は、すべての男たちをあやつり、とりつき、狂わせて、何もかもを投出させるだけの力のあるものでなくてはならぬ。それはもちろん実際の性とは様相を異にしているといわなくてはならないが、しかしそれは願望からというよりも、切迫した必要に迫られてあらわれた様相であるといえる。彼女たちがニンフォマニアだとか、無知のために性を誤解していると思うのはまったくの勘違いである。ただ彼女たちは、自分に必要なように性を恣意的に変貌させたのにすぎない。
......
少女たちから要求されているのは、社会の秩序に反逆してもかまわないとされる「究極の愛」 とでもいったもの、自分を否定する社会の論理をはねかえしてでも自分を守り、自分の正当な居場所を与えてくれることのできる強烈な愛着である
というわけで、社会への反逆それ自体には意味がない→そこからの救出を求めているのだから。現実問題として疎外されているのだから。
明らかに、少女たち、JUNEを求め、それをなんらかの拠点とした少女たちにとっては、問題なのはホモであることでもなければ、レズビアンであることでもなかったのだ。
......
彼女たちがむしろ「女性であること」 自体に対して反逆したいのだ
.....
彼女たちは「少年でありたかった」 少女たちなのだ。
きょひ拒否しているのは、彼女たちがあいそをつかしてしまったこの現実でしかありえないのだ。そしてその、理想化され、清潔に、生活のみにくい側面ややっかいごともなく、老いることも中年のいぎたないオバン、オジンになることもない、時の止まってしまった宇宙こそ、オタク、拒食症、モラトリアム青年、そういったコミュニケーション不全症候群の男女すべてが共通して恋いもとめるーその方法がさまざまに異なるというだけでー究極の世界なのである。
長女について
おとこのこ男の子して期待されていながら、結局長女として生まれてきた子供は、自分が両親の期待に最初の存在からしてそむいた子供であることを感じ取る。そして、無意識に男の子としての役割のほうにむかって自分を形成していく
kana.icon べつに男の子として期待されてたわけではないけど、kana.iconは「男」 を、小さいときからずっとやりたがっていると思う。
少年マンガとジェンダー
ジェンダー撹乱としての手塚治虫, 永井豪
「風と木の詩」 をはじめ「真夜中の天使」 やその他の作品のなかでも少年たちは事実上一切の性的快感をはくだつ剥奪あれていたのであって、それはとりもなおさず少年に化身した少女たち自身が、正常な性的快感を順を追って知っていくより早く、対象としての少女の性におとしめられ、あるいは性的欲求を持つことを社会によって規制され、またその一方で男性の性的欲求にたいして無制限に受容しなくてはならない、そういったさまざまに矛盾し、抑圧をはらんだ社会あらのメッセージを大量に受け取らねばならなかったという事実の反射にほかならない。JUNE世界のなかでは少年たちはただ「犯される」 存在であったのであって、決していずれ犯す側に成長してゆく幼い雄であったのではなかった
kana.icon まじで、これな...
なぜ、JUNEさっか作家たちは少年を選んだのか。それを永遠に少年のままにとどめておくためである。少女は犯されることによって少女でなくなってしまう。
......
そうであるから少女たちは成熟と女性性を拒否して拒食症に走ったのだ。
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彼女たちはたとえどのように対象化された、差別された存在としてであっても、なお女性として社会の成員になるよりも少女でありつづけたいと望む。さらには少女でさえいつづけたくない、少年でありたいと望む。
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彼女たちがもっとも恐れるのは乳房のふくらんでくることである。それは初潮とともに彼女たちに、彼女たちが生む性としての準備が整ったことを告げる最初の合図にほかならない。
chapter9 最後の人間
現代はコミュニケーション不全症候群の時代である
それは、過密に原因がある
特徴は、
健全な対人感覚を持てない
目の前にいる人間を認知しない
コミュニケーション不全症候群の例
オタク
現実に自分の居場所を持てない/競争に落ちこぼれたことで、非現実のなかに自分の居場所を見出そうとする
虚構が現実より重要なものとして認知されている
→他者を人間として認知るうことが難しい
摂食障害の少女たち
男性原理の社会への過剰適応
少女たちは、いつでも対象化された存在としてのみ存在してきた
それでも、社会に小さい居場所をもちたいために努力する
JUNEを愛好する少女たち
女性性への社会の選別や差別からの脱出をはかる
自分自身を少年ととらえることで、主体性の確立をはかる
逆に少年漫画では、ジェンダー撹乱てきなものもあったが、超男性論理のみの支配する異形の空間となった
これは、少女漫画やJUNEが「犯される存在」 としての少年というイデアに傾斜していったのと呼応している
→「犯すもの」 と「犯される者」 の論理の二極分離、そしてそれによって、選別と力の論理を強固してしまった。
見知らぬ隣人への恐怖心。
ここからくる一方通行の関係が、コミュニケーション不全症候群の本質
現代社会の中での生存の困難さ。助けてというSOS
異常な事件の原因は、その個体ではなく、病んだ社会に原因がある。
彼らはふたりで一人の同一人物である。現代の少女は骸骨と人間象とのあいだを往来し、拒食症と過食症のはざまで生きることになるだろう。現代の少年はおたくと化すか少年ジャンプが象徴する超男性の夢をみつつ、過度に正常な「典型的サラリーマン」 となって通勤電車の中でジャンプをむさぼり読むか、そのどちらかを選択しなくてはならなくなるだろう。バランスのポイントは見出すことができない。なぜならば、彼らは骸骨の側へか象の側へかーより正確には生きるのを許されていないと感じているのだ。
<現代>をあらゆる形式と程度によって表している
コリン・ウィルソンのアウトサイダーの時代にはまだアウトサイダーの生きる場所はあった。が、現在はすでにインサイドとアウトサイドの対立が存在しない。それによって、アウトサイダーとして以前であれば生きられた「落ちこぼれ」がインサイドの怪物として徘徊しはじめる
平凡で、しかもとるにたらない存在のなかに自分ひとりの誰も入れない場所をしっかりと隠し持ち、ウォークマンで耳をふさぎ、まわりに群れている他の人間たちを彼らの内的世界のなかでは幽霊程度の存在までおとしめながらごく普通に歩き回っている。私たちはそれぞれ幽霊で一杯の死滅した世界の廃墟を、たったひとり歩き回っている<最後の人間> であるのだ
手塚治虫と、「被抑圧階級」からの告発
chapter10 コミュニケーション不全症候群のための処方箋
自分自身は変わることができる
まずは、自分のおかれている環境、時代と社会からの、しらずしらずに掛けられている圧力、自分がどのように苦しんでいるかを良く知ること
どんなに病んでいるかを知り、苦しみから逃れるために他の人々を犠牲にしていると知ること。
みずから自らの不適応を認識すること
「見ればいい」のだ。
あいてを幽霊として見ていることに気づくこと
ゆきずりの人間どうしがぱっと「敵意を持っていない」 サインを出せたらものごとはまったく変わったものになるだろう
他の人びとを、自分の存在の保証としてだけ見ることをやめる。
<時間>を受け入れること
kana.icon これはどういうことだってばよ
自分を直視すること、自分の苦しみを認識すること。そしてそうするだけの勇気を持ち続けること。
kana.icon
以前読んだときは、オタク差別やばっ精神分析気持ち悪っと思って引いてたんだけど、じっくり後半まで読んでいくと、まさにkana.icon自身の不安のことが書いてあって驚いた。
まず、居場所を人の好意にもとめてしまうこと。居場所が観念上のところにしかない。現実の場所がない
そして、社会に適応したい/受け入れられたいからこそ、「モデルケース」 を意識してしまうこと。
そして、kana.iconは (あるいは多くの人は) 社会からハジかれないように、生き延びるために、必死で「気に入られようと」 する。
→これらの流れを経てkana.iconは逆に、見ることを否定的に受け止めるようになったがその結果、過敏で統合失調症的になったこと
→まずは、「共同幻想が存在し、それを維持しつづけようとしている人々がいる」 ことの理解が重要だろうか。
理解したところでどうする?やはり社会からハジかれたくはないが。
まずは、他の人を自分の存在の保証として見ていたことを反省して、できるだけ「他者」 にたいしてひらかれていることかな。
関連本
友だち幻想 ーー人と人の〈つながり〉を考える
戦闘美少女の精神分析
再読 : 2022/2/18
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