カーティス・ヤーヴィンの「新反動主義」――王制主義リバタリアンとは何か
https://gyazo.com/f76ffc2d2324b813b48d85ee13cf7aab
CC-BY-SA 4.0)
https://gyazo.com/718184550b7a7ba717a9ce37aa16dd02
まえがき
(参照したのはほぼ一次資料)
特に、彼の提唱したネオカメラリズムやフォーマリズムについて論じ、類似する議論をした他の論者と関係付ける。
カーティス・ヤーヴィンは2007年から2013年頃にかけて、彼が考えた民主主義に否定的な政治理論に基づいて、メンシウス・モールドバグ (Mencius Moldbug) という筆名でブログで発信していたブロガーである。
ヤーヴィンは2019年頃からインターネットでの著述活動を復帰し、現在は Gray Mirror で発信している。 ちなみに、ヤーヴィンはUrbitというソフトウェアを開発していたエンジニアでもあった。 なお、現在の私の評価としては、ヤーヴィンは以下に言うように陰謀論的なことも言っているし、(興味深いアイデアをいくつか出しているとは思うが) 信頼に値するとは思わない。 面白いアイデアとかなりあやしい話が混ざった何かという感じ。大言壮語が多い。
記事はこのようなタイトルだけどヤーヴィンがリバタリアンだったのは昔の話 (当時もオーソドックスなリバタリアンではないし、当時からリバタリアンであるとも、リバタリアンではないとも言っていたけど) で、2019年頃の活動復帰以降からヤーヴィンにはリバタリアンからかなり反対側に振れているように見える (この記事は主に昔のかれの記述に基づいて書かれている)
ラッダイト主義?
それするくらいなら公共事業でいいような、、、
そんな昔の記事だったんだこれ
この記事の題名は変かもしれない。どういう意図で鉤括弧を使っているのか、と言われても説明できない (本人が新反動主義という言葉を使っているわけではなく、また名目だけのという含みがあるわけではない) し、鉤括弧を使うべきではなかったと思う。(だけどURLが変わるのもどうかと思うのでそのままにしておく)
(注 (この記事の信頼性: )
私は特に政治や経済について詳しくないので、あまり信じないほうがよい
)
主張の要約: 政府組織を、領土を所有する、税収の最大化が目的の株式会社にする (主権株式会社) という提案
また、既存の政府も企業とみなし、所有権構造 (企業所有論) の観点から分析する。
キーワード: 政治的所有権 (political property rights)、プライベートガバナンス、公共選択論、残余請求者、制度的エントロピー (institutional entropy)、定住型盗賊モデル
"君主制が一番いい政府の形態なのは、王が国を持ってるからだ。
家の持ち主と同じで、配線がおかしいとき、王は直す。"
――君主制主義の村人 (村人は、共和制だと借り家みたいなもので自分のじゃないからダメになっても (政治家が) 気にしなくなってしまう、と続ける, p.26) (この村人の発言は、ヤーヴィンの政府についての考えの要約になっていると思う)
Part毎に番号がふってあるが、あまり依存関係は無い
ayu-mushi.icon
ヤーヴィンによるFnarglの思考実験を紹介し、(ゲーム理論における)コミットメント問題が考慮されていないことを指摘した
ヤーヴィンの主張はロナルド・コースの会社論の枠組みを使って把握することが可能っぽいという考察をした
加えて、ヤーヴィンは政治権力を所有権とみなして考察する上で、所有権の欠如から来る問題と所有権の分割法のまずさ (外部性) からくる問題を区別していないが、したほうがいいのではないかという指摘をした
キーワード: 主権、所有権、徴税、再分配、権力の真空状態、タカハトゲーム、シェリングポイント、レントシーキング
ネオカメラリズムの根拠と思われる理論
けっきょくフォーマリズムにもとづいてネオカメラリズムを正当化するより、コースの会社論にもとづいて正当化するほうがいいんじゃないのって気がした。所有権がそもそも明確ではない状況では、コースの議論が適用できなくなるので、そこではフォーマリズムの方が適用できるかもしれないけど
この記事では、私ayu-mushi.iconはタカハトゲームによるゲーム理論的分析を行う
また、ヤーヴィンの、民主政治は固定量の資源 (権力、税収、公職) をめぐって争う限定戦争として見ることができるという主張を検討し、反論を行った
また、政治哲学における分配的正義の観点からも考察する。
主張の要約:権利者 (所有者) が誰かが明確に決まってないと、揉め事や権利争い、(分配的)政治、パイの奪い合いが生じるので、誰でもいいから権利者が明確に決まっていることが重要です。
→現状の占有者 ――つまり対象からの受益者, 残余請求者, 対象に影響力を持つ者―― にそのまま権利を保証するのが、更なる争いを生じる可能性を無くすために良いでしょう (時効取得)。 →その帰結として、主権も (領域に対する) 所有権の一種と捉えて (記述的主張)、あるいは普通の所有権のようにしていきましょう(規範的主張) (主権の対称的理論)。
ヤーヴィンに関連する思想家・研究の紹介。ハンス=ハーマン・ホップ、ニック・スザボ、スペンサー・ヒース、Richard Auster & Morris Silver、Andries Kerpesteinなど。
あんま書いてない
ティボーモデル、地価最大化モデル、私有コミュニティ
他の競争的ガバナンス構想の色々を列挙してみた
記事の指針: formal / informal, security, responsibility, powerといったヤーヴィンの語をできるだけ別の言葉で説明すること (なので言い換えに私の解釈が入ってる)
(元の言葉も示したほうがいいのでは)
記事/資料
以下は一次文献。
フォーマリズム
最初の記事にして個人的には一番良い記事
フォーマリズムの応用
この記事の理論の応用として彼のいろいろな話が発展するので、非常に重要な記事だと思う
「圧政は政府/領土の所有権が不確定・不安定であることから生じる内戦のようなものである」「(省庁などの)競合勢力が政府内部競争でアドバンテージを得るための行為によって政府外に犯罪や代理戦争が生み出される」など。
犯罪、対ゲリラ作戦、外交政策など彼の好きなトピックについての出発点となる理論
リバタリアンであるNick Szaboと、フォーマリストであるカーティス・ヤーヴィンとの意見の違いがわかる論争。
リバタリアンとフォーマリズムの違い
合衆国国務省のフォーマリズム的分析
"The interests of government and governed are never perfectly aligned. A government is the owner of valuable human and geographical capital, and the profits from this capital must go somewhere."のあたりまでスクロールする
その前の部分はフォーマリズムと関係ないし、私は理解していない。
ネオカメラリズム
ネオカメラリズムの解説と現状の政府の分析がまとまっている
ネオカメラリズムと民主主義の比較、消費者協同組合と民主主義の類比、がある
ネオカメラリズムの解説、ネオカメラリズム下での貧困への対策についての言及あり
//ayu-mushi.icon政府が行うプロセスが公開されている場合、その行動が公益にならない場合に、報道などで非難を受けることになるのだから、「公益のための組織である」とすることはなんの機能も果たしていないわけではない気がする
//各アクターはそれぞれの動機を持って文句をつけるかもしれないが、それはあくまで名目に従って文句をつけているのではないか
ネオカメラリズムと現代民主主義の分析
Cathedral
// ayu-mushi.icon大学教授がその卒業生に有利な考えを信じるというのは、別に公務員以外にも卒業後の様々な進路について言えてしまうのでは >("A dominant idea will be especially popular with your friends and former students in the civil service, because it gives them more work and more power.")
経済学のほうがステークが大きいので、不正が発見されやすい。ということは、ヤーヴィンのいうように影響が大きいから誤った考えから利益を得る人がいるという効果だけでなく、影響が大きいからこそ正確になる方の効果も考える必要がある。
Cathedralの起源、なぜ悪いか
ヤーヴィンは現代アメリカはウォルター・リップマンやチャールズ・フランシス・アダムズ Jr.が理想にしたような報道・大学・行政機関が実権を持つ体制だと言っている。しかし、ウォルター・リップマンやチャールズ・フランシス・アダムズ Jr.の著作がその主張の根拠になるわけではないだろうと思った (人間の計画や理想が一般的に成功するという法則はないので、彼らの計画がほんとうに成功したと言いたいのであれば彼らの著作とはべつの根拠を改めて必要とすると思う)
ヤーヴィンの Cathedral, Universalism 論は、ある種の陰謀論もしくは批判理論では?
①集合行為の構造。受益者グループが支配・搾取のメカニズムから利益を得ているというだけでは、受益者グループが実際にそのメカニズムを維持するために行為している証拠にはならない。受益者グループは個人で構成されており、個人が集団の利益のために行為するには、広範なコーディネーションと協力が必要になるからである。粗雑な陰謀論者は秘密の会合のようなものを想定するが、多くの陰謀論、そして批判理論は、コーディネーションと協力がいかにして行われているかを説明せず曖昧にぼかしている。
②搾取・支配のメカニズム。搾取・支配のメカニズムは、(伝統的な植民地主義や封建主義などの場合を除いて)観察不可能であり、理論的に仮定されるものである。更に、メカニズムが観察可能なら被害者がそれを許していないだろうという考えから、隠れた搾取・支配のメカニズムが探求されることになる。単純な陰謀論はマインドコントロールなどを想定するが、批判理論も言説編成における「規範」や「論理」の影響を想定しており、陰謀論と大きく異なるわけではない。〔ayu-mushi.iconヤーヴィンも何が観察の結果で何が理論的な推定なのか、どの観察からの推定なのかをあまり明示せずに書いていた気がし、悪い感じがする〕
たとえば「トリクルダウン理論を用いて富裕層の減税を道徳的に正当化するが、それは実際の効果としてはそれに基づいて富裕層が共謀して取られる税を減らし自らたち (のみ) に利益をもたらすという隠れた機能を持っている」という説とかと同じ構造っぽい
このScott Alexanderのイデオロギー論だと、イデオロギーは被害者を騙して搾取するためにあるんじゃなくて受益者の間でのコーディネーション/協力を行うためにあるってことになるけど
ナショナリズムとかは自集団内のコーディネーション/協力に役立つタイプのイデオロギー (本当に役立ってるのかはしらない) の例になるけど
富裕層への減税が富裕層の利益になるのは明らかだから、何が自分たちの利益になるのかを考えるための談合はそんなにいらないだろうけど
「そもそも何が自集団の利益になるのか」を考えるという談合と、行為の段になってのコーディネーションは別なのでは
つまり、トリクルダウン理論は富裕層にとって前者を解決しない (そもそも自明なので解決する意味がない) けど、後者を解決する役割があるってこと?
(政治献金はスタグハントゲームや男女の争いのような構造ではなく、ほんとうにフリーライダー問題があるのか?
貢献する人数が増えるほど政治的効果が高まると仮定するとフリーライダー問題になるが、一定の閾値以下では政治的効果を持たず一定の閾値以上からそれ以上増やしても政治的効果を持たないという状況ではフリーライダー問題よりスタグハントゲームや男女の争いに近そう?)
いや、コストが貢献者にだけあって、利益は他の人にもある (ほとんどの利益が他の人に帰属する) という意味ではフリーライドの余地があるか。公共財ゲームのように「全員貢献する」状態にすればパレート改善になるというわけではないけど、お金の移転を考えれば「一部が貢献する + 貢献しないが利益を受ける人がお金を貢献者に送って補償する」とすればパレート改善する。
んーでもここで問題になってるのは政治献金だから、お金を移転すればパレート改善するんだったらそれぞれが直接献金するんでもいいような
投票は閾値があるけど献金は閾値はないような (もしある候補が選ばれればそれでいいし、それ以上の献金に意味はないという状態なら閾値があるか)
一定数の貢献がしきい値を超えると通るみたいなモデルだとフリーライダー問題にはならないけど、実際そういう事は少ないのでは (特定の党が勝つために働きかけるならそういう状態になるけど、どちらの党にも全体的に自分の傾けたい方向にプッシュするみたいなことには閾値がない)
道徳がコーディネーション・協力を両方説明することから派生して、広範なコーディネーションと協力を説明できるように見える?
集合行為を道徳的に正当化/動機づける信念が共有され、人々が道徳的動機から集合行為を行うという場合には、たんなる公然とした協力も含まれる
「イスラエル国家の建設というのは実はシオニズムというものによって共同しユダヤ人の利益を目指す集団的な計略なのだ!」と言う場合、ユダヤ人以外にとっても目的が明らかな、完全に公然とした協力の例。陰謀の場合とは対照的
「○○は☓☓を正当化するのに使われる可能性があるから危険だ」のようなことを人々が明示的に言っている場合においては、特定の道徳的判断を正当化するという目的のために協力してある信念を広める / 広めることを避ける、ということも不思議ではない (個々が動機づけられた推論を行うということも不思議ではないので、道徳的判断が先に共有されてそれを正当化する信念をおのおのが動機づけられた推論によってもってしまう あるいは説得力を感じてしまう、というのも、不思議ではないか)
この例は道徳的判断の正当化であって集合行為やその隠れた機能の話とは違うか
あらゆる可能な道徳のデザイン空間を考えたときに、その中で普遍化可能性とかを満たすものは少数にすぎず、その中の多くは一部の集団の中での協力を可能にするにすぎないとするなら、一部の集団が他の人々を犠牲に利益を得る規範というのはありそうな感じがする
しかし Cathedral は完全に公然とした協力とは異なるように見える。ヤーヴィンは権力を追求することなどが (地球温暖化することが環境に悪い影響を持つという信念などの) 信念の真の機能だと言っているが、「かくかくをすれば我々が権力を獲得できるので良いでしょう。よってかくかくをしましょう。」とみんなに言って協力を始めるわけではない
権力獲得・維持に役立つ行為を道徳的に正当化する信念の存在によって広範なコーディネーションと協力は説明できても、今度はなぜ権力獲得・維持に役立つ行為を正当化する機能を持つ信念が選択的に広まるのか? という新たな謎に答えなければならなくなるだろう――すごい偶然の結果たまたまそういう間違った信念を持っているというのではないだろうから
真の結果を知ることが難解すぎると受益者自身からも隠れてしまい受益者の間でどう広まるのか説明するのが難しくなるし、簡単すぎると受益者以外にもすでに知られてしまっているだろうからわざわざ2008-2014年にヤーヴィンが指摘するまでもないだろう
あるいは受益者は言説の真の機能が分かる洗練された人 (京都人?) だが、受益者以外は文字通りの内容として受け止めるナイーブな人だとする必要がある
受益者と被搾取者に知識の違いがあって受益者の方が真の機能の理解に至りやすいというようなことはありえる。専門家と一般市民の知識差とか
受益者自身もその機能を知る必要がないと言っているように思えるが、単に気分がよくなるような信念が広まるというくらいだと Machiavellianism とは言えなそうだから、意識せずに戦略的思考をしているというような変な構図がある
確かに人には自分に有利になるような自己欺瞞をする能力があってもおかしくないけど
地獄・天国への信仰など、信念が隠れた社会的機能を持っているように見える例はある
これは社会単位の (そういう信念を持つ社会は滅びにくいというような) 文化進化によるものか? それとも社会の中の特定の人々の利益になるものが広まることができる?
チェスタートンの柵は、存在するものには何かしら機能があるかもしれないというけれど、それが特定の集団による搾取という機能であるという可能性は? (例: 畜産を行うことは人間にとって意味があるけれど、それは非ヒト動物に損をさせて人間が利益を得るという機能)
特定の人々の間でだけの社会契約
親が、「そんなことしてると地獄に落ちるよ」と子供に言う場合、規範に従わせることはまさに意図された目的であり、隠れた機能ではないかもしれない
どうせその場の議論で勝つためみたいな場当たり的な動機が多くてそこまで戦略的じゃないんじゃないのという感じがする
「悪意があるわけではなく、現実にはある集団の利益になるような振る舞いAについて『Aは道徳的に (も?) 良い』というふうな信念をなぜかちょうど選択的に持っている」というのは、Hansonian Optimism (Hansonian Optimism | Slate Star Codex)と似ている (Hansonian optimismの場合は集団というより個人かも) 「自集団の利益になる」という信念自体は持たれているものと考えているのか? (つまり、上の括弧内の「も」は含まれているのか)
「も」が含まれている場合はよりありえそうな感じがする
富裕層への減税が良いと考えるおかねもちの場合は、富裕層にとって良いということは当然理解していて、それがたまたま社会的にも良いのだ、と言っているのだろう
医師会が、医師免許取得が厳しいのは安全のために必要なんだ、という場合、医師の供給を絞って賃金が上がるということは分かってて (このことはそこまで一般常識ではないけど)、それがたまたま社会的にもいいんだ、と言おうとしている
その場合、権力獲得・維持に役立つ性格が隠されているわけではなくて、提唱する人々の権力獲得・維持に役立つし、しかも (幸運なことに) 社会的にも良いのだ、と (被害者をふくめ) 人々は思うことになる?
医師のほうが規制で供給を絞ると賃金が上がるということを理解しているという状況では全然騙せる気がする
知識が非対称なので、自分たちの利益のために言ってるのかほんとに安全のために必要なのか医師以外にはわかんなくて、後者のリスクを考慮すると前者の可能性があっても制限したほうがいいみたいなケースもありえる
集団Aが、行為xは集団Aの役に立つと思っているけど、集団Bの人への説得のために、「実は行為xは集団Aには損! 実は集団Bにとって得!」 といった場合、これに仲間も間違って説得されてしまうと、同じ戦略的理由から今度はその説得された集団Aの人は、「行為xは集団Bには損! 集団Aにとって得!」と言うインセンティブが発生して、それに仲間が説得されてしまうと、以下同様 という無限振動状態になって面白い
motivated reasoning
ヤーヴィンが民主主義は実質的にはメディアによる支配だというとき、メディアの人が民主主義を支持するときはそのことを分かってやっていると想定しているのか
メディア支配から逸れた民主主義は populism , politics, politicization と呼ばれる、みたいなことをいってるから暗黙の理解か何かがあると思ってるんじゃない?
たとえば思想家が「人々の行動に与える要因として、思想は強力な要因だ」と考えたら、自分自身が影響力を持っているかのようで気分がいいかもしれないが、そう考えることによって本当に影響力が手に入るわけではないので、あまり Machiavellianism 的ではない
それは本当の権力の追求ではなく、自分の妄想の世界の中での権力者になるだけだ
いや、それで自分がやっていることは重要だと他人に説得し、研究資金などが得られるなら 戦略的にも有効か (この例だと、影響力があるということでむしろ危険視されるかもしれないけど)
別に思想家が思想を重要と思うのは、生物学者が生物学的要因を重要と思うのと同じで、自分がそれによって仮に対象に介入できるようにならない (たとえば遺伝子操作が発明される以前でも、遺伝学者は遺伝的要因が重要だと思うかもしれない) としてもありえるから、自 分野の説明能力を過大視するという傾向の一例ってだけで、権力追求の例ではない気がした
教育学部の人が教育が重要って思う (アマラとカマラみたいな) のはどっちなんですか
妄想の中で権力者になりたい or 重要だと思われると威信が上がる or 自分野の説明能力を過大視する一例にすぎない
「対策が逆効果をもたらすことによって自分自身に利益を与える」というのはかなり難しくて、なぜならその信念が偽であることにまさに依存して利益を得るということだから、心のある部分ではそれを真だと知らないだけでなく、偽だと知っているというタイプの自己欺瞞を行わないとそれによる利益を (たまたま得るだけでなく) 追求することはできないだろう
もしその嘘理屈に、仲間まで説得されてしまったら、その仲間にとっては嘘理屈を言うインセンティブがなくなってしまうのでは
成功すれば世界が救えるし、失敗しても自分には利益になるし、という気分で支持する可能性はある
Appeal to consequenceに、「いくらみんなにとって望ましい結果をもたらす信念に見えても、真であることではなく社会的に望ましい結果を持つことを理由に信念を採用すると、長期的には社会的に望ましくない結果に導く」という議論を載せたが、これは「みんなにとって望ましい」の部分を、「自集団にとって都合の良い」に変えても成立するだろう (「自分個人に都合の良い」に置き換えても成立するかもしれない) 自集団にとって本当に利益になる自己欺瞞を行うのは、そう簡単なことではないんじゃないか
②としてヤーヴィンは、報道機関と世論の関係に関する強力効果論? のようなメカニズムを考えている気がする
実際に「マインドコントロール」という言葉も使っている
ヤーヴィンはナチスや共産主義と現代民主主義を同じくくりにして「ナチスや共産主義者はジョージ・オーウェルが描くようなプロパガンダ国家だった、だから現代先進国がそうであってもおかしくない」みたいなことを言っているけど、Hugo Mercier によればナチスのプロパガンダはじつはそこまで成功していなかったというので、その帰納で根拠づけるのは無理では
でも Hugo Mercier は論理的説得は広まりやすいとも言っているから、論理的説得でプロパガンダを行ったらみんなに影響を与えられる可能性があるよね。メディアはそれを行ってるのかもしれない、というのはありえる。
論理的というのは、人にそう思われればいいわけで、バレない限りでは詭弁でもいいだろうと思う
利用可能性ヒューリスティックとか
The basic premise of UR is that all the competing 20th-century systems of government, including the Western democracies which came out on top and which rule us to this day, are best classified as Orwellian. They maintain their legitimacy by shaping public opinion. They shape public opinion by sculpting the information presented to the public. As part of that public, you peruse the world through a lens poured by your government. Ie: you are pwned.
sculpt: 彫刻する
peruse: 精読する、よく調べる
pour: 注ぐ
バラモン(学者・ジャーナリスト・公務員ら) が集団として (?) 利益や権力などを (計画的・意識的・共謀ではなく、無意識・創発的にということではあるが) 追求しているとしている点、一般的にそう思われていないが強大な権力を持っていると考える点、我々の事実認識や言説も彼らの都合の良いようにひずめられていると考えている点などから、陰謀論的と言えそう
conspire や scheme という言葉自体も使っているわけだし (schemeは1人でもできるので陰謀とは限らない?)
It can also be seen as a perfectly distributed conspiracy, à la H. G. Wells, with no central structure at all. "distributed conspiracy"
As a good democrat, of course, you have been taught to fear systems of this class only in the case that they have an evil genius, or at least a cabal, behind them. Thus “conspiracy theories.” But in fact, you should find a decentralized, self-coordinating system, one in which ideas are filtered and organized by memetic evolution rather than intelligent design, far more creepy and dangerous.
Union of church and state can foster stable iatrogenic misgovernment as follows. First, the church fosters and maintains a popular misconception that the problem exists, and the solution solves it. Secondly, the state responds by extruding an arm, agency, or other pseudopod in order to apply the solution. Agency and church are thus cooperating in the creation of unproductive or counterproductive jobs, as "doctors." Presumably they can find a way to split the take.
ヤーヴィンは、自らの仕事を増やしたり重要性を増すために公務員や学者は政府介入に肯定的みたいなことをいうけど、ブライアン・カプランによるとむしろ一般投票者の方が反自由市場的
ニック・スザボも民主的な議会より専門特化しており産業界のロビーイングの影響を受けやすい独立した行政組織の方がよりリバタリアン的である可能性を指摘している:
企業のロビーイングは、競争を阻害して供給を絞り価格を上げて利益を得るために規制を求めることもあり、かならずしも規制緩和を望むわけではないはずだけど、スザボは議会の方がより規制を求めると考えているようだ
Nick Szabo:
My instinct is to say that Chevron is a profoundly unlibertarian decision, as it gives more power to regulatory agencies, but upon reflection I wonder if it is true. It is of course profoundly undemocratic. It effectively weakens the ability of Congress to control the regulatory agencies.
Congress is spread far too thin to competently write clear statutes, so there are usually vast gaps and ambiguities for the regulatory agencies to play with.
So the real question for Chevron may be, is the rulemaking process of Congress more or less libertarian the the rulemaking process of the agencies? The answer, unless one reflexively supports "democracy", is by no means clear. If industry lobbying on average reduces regulatory burden (as it did in Chevron) more than it increases it, and (as is likely) the lobbying of regulatory agencies (experts on narrow subject matter) is more efficient than lobbying Congress (experts at nothing), then Chevron will tend to produce more libertarian rules. I'd love to get your opinion on the matter.
ヤーヴィンは行政国家は大きくなっていく傾向を持つと言うが、一般投票者より公務員の方が自由市場を支持しているのであれば、大してそんなことはないということになる気がする (いや、拡大する理由がイデオロギーの問題ではなく、インセンティブなのであれば、そうとも限らない…けど、ヤーヴィンは人間は自分の利益に合うイデオロギーをでっち上げるものだと思ってそうな気がする)
まあヤーヴィンは王政の方が自由市場的という主張だから一般投票者がどうかというのはどうでもいい?
しかし「行政国家が (王政に比べて) 肥大化の傾向を持つ」の括弧内を抜かすのは変
(もしちょうどぴったり利益を最大化する考えを抱くなら、そんなことはおこらないはず)
不幸の手紙のように、ミームの利益と主体の利益は食い違いうるってこと?
ヤーヴィンは、道徳的な面については、Cathedral の問題は誤信念や権力維持に伴う副次的被害 (friction)、無能さであるとしており、搾取 (分配の不公平) や支配 (権力分布の不公平) 自体は、Cathedral が行っていることだと考えるものの、 (少なくとも明示的には) 道徳的観点から問題にしているわけではない
(暗にレトリック的にその点を非難しているところはありそうで、あと報道の人が民主主義を謳うのにそれ自体非民主的であることの一貫性のなさ・偽善性を非難していることはある)。
フォーマリズムを導入すると現在の支配構造をそのまま維持したまま でも Cathedral を廃止でき、権力関係の不公平自体は残るものの、それで問題ないと考えるはず
つまり、現在の支配階級の人々に現在持つ権力に応じて株式を分配したネオカメラリズム政府にすれば、支配階級はそれからは誤信念によって権力を維持する必要がなくなる、とヤーヴィンは考えている
これによりヤーヴィンが道徳的に問題にするところの、誤信念や権力維持に伴う副次的被害、政府の無能さが解決できるため、(分配の問題、支配・搾取の問題は残るものの) 問題がないと考えるだろう
ayu-mushi.iconもしそれが真なら、支配階級にとって (も) 望ましいはずのフォーマリズムがすでに世界に導入されていないのはなぜか。支配階級は権力と利益の追求が下手なのか?
しかし、支配階級が望むことは実現されやすく、フォーマリズムは支配階級にも得とすると、フォーマリズムを導入することが現実に可能と信じる理由にはなる
なので、マルクス主義や批判理論のイデオロギー論との関係は、
事実認識は構造が似ている
道徳的価値判断の面 (それを問題視する理由) については大きく異なる
という感じ?
Cathedralの考えは、マルクスのイデオロギー論/虚偽意識に似ているけどなんか致命的に違うよねと思ってたけど、事実判断の部分/道徳的価値判断の部分に分けるとすっきりするかな。
ヤーヴィンの考えは、以下で批判されているMichael Lindの考えと同じ問題がある気がする
Michael Lind, a kind of culture conservative New Dealer, takes this sort of crude materialism in some extremely bizarre directions, for example arguing that urban elites want to defund the police to create more jobs for social workers. Presumably, lower class types would be against defunding the police because they would be more likely to work as cops and suffer the consequences of increased crime.
At times, the line between Lind’s brand of materialism and crackpot conspiracies grows thin. In a 2020 column on the George Floyd protests for the “post-left” publication The Bellows, Lind wrote, “The slogan ‘Defund the police’ is interpreted by the bourgeois professional left to mean transferring tax revenues from police officers, who are mostly unionized but not college-educated, to social service and nonprofit professionals, who are mostly college-educated but not unionized,” meaning the seemingly heartfelt protests against police brutality were really a way to create more jobs “for members of the professional bourgeoisie in their twenties and thirties.”
This is absurd. There just can’t be many white police abolitionists who came to that position after thinking, “You know, my surest route to a cushy government job would be to march in support of radical criminal justice policies that have little hope of near-term passage, but which would, in theory, free up fiscal space for investment in social services.”
確証バイアス (ポジティブバイアス)の可能性
1. 「dominant ideaかつ広まっているもの」2.「dominant idea だが広まっていないもの」3.「dominant ideaでないが広まっているもの」4. 「dominant ideaでなく広まってもいないもの」
行政府に対し違憲審査を突きつけるほうが最高裁判所判事や法学者の権力?や重要性 は増すので、自由権のイデオロギーを採用するほうが得かもしれない
計画経済の方が経済学者の職は増えるのに、経済学者には自由市場を支持する人が多い。農業で自由市場が機能し、そのことが知られ自由化されれば、「農業経済学者」の社会的重要性は下がるだろう。では農業経済学者は自由市場に反対するのか? (自分はこの問いに対する本当の答えを知らない)
マクロ経済でオーストリア経済学がアカデミアで人気がないのは、それが経済学者に職を与えないからというのがヤーヴィンの理論だと思うけど、(よく知らないけど) 主流派マクロでもリアルビジネスサイクル理論とか、合理的期待形成理論のように、中央銀行ができることについて疑念を持つものがある:
When I asked a macroeconomist at the University of Michigan why RBC〔リアルビジネスサイクル理論〕 models were still so strangely popular, he shrugged and said “Politics!” RBC theory basically says that neither the Fed nor Congress can stabilize the real economy, so using things like fiscal stimulus or interest rate cuts to try to fight recessions is pointless. The macroeconomist I spoke to suggested that this feature of the models appealed to small-government libertarians, who — at least at that time — had a decent amount of clout in the economics field.
ブライアン・カプランの話を踏まえると、ヤーヴィンの言うよりリバタリアンは Cathedral の一部なんじゃないかという気がした。主流派経済学というのはもちろんアカデミアの一部であり、オーストリア学派に比べればそうでないにしても、一般人より自由市場に好意的だ。
(<title>はThe Cathedral and the Bazaar"だけど記事内で表示される記事名は"The Cathedral or the Bizarre"となっている)
political formula というのは
被支配者に支配者を愛させ、奉仕させ、服従させるように説得する考え
支配階級にとっては自分自身が正しいことをしていると正当化し、政府に経済的に依存している人にとっては自己利益を保証し、納税者に対しては服従させるようなもの
であると言っている
福祉についてのゼロサム的/再分配的捉え方?
納税に注目した区分は、政府を経済的搾取の手段とみなし、それにもとづく階級論を唱えたフランツ・オッペンハイマーっぽい?
I’ve also noticed that a lot of people in tech make hating the media central to their political identity, and in this case it’s understandable. Reading much of the coverage since the Great Awokening, it’s clear that many tech reporters don’t care about tech as such, but see their job as uncovering race and sex discrimination within the industry. As with art critics and sportswriters, it appears that to a large extent the subject of the reporting is almost secondary, and the real point is the narrative.
Nonetheless, just as how a victim mentality is not good for ethnic groups, it’s also self-defeating for political movements. It prevents people from seeing their own flaws and assessing their circumstances objectively, and makes them prone to accept conspiracy theories and engage in catastrophization. I’ve already mentioned the conservative polling disaster of 2022, which misled Republicans about their prospects and may have contributed to them nominating unelectable candidates that campaigned in the general election like they were still in the primary.
…
I think people keep expecting the MSM to go away because they misunderstand the source of its power. Balaji calls what they do “fiat information,” Yarvin refers to “the Cathedral,” and Sailer talks about “the megaphone.” Each of these phrases misleads us about why the press is so powerful.
その他
ヤーヴィンがどんな政府もやるべきと考える原理原則を10個まとめている
彼の現在の政府への不満がどこにあるか、がまとまっている
文化戦争問題 (人種関連) への重点が大きいように見える (2,3,4,5と4つあるので)
ayu-mushi.iconこれは2021年のだが、昔のリバタリアニズムに基づく現状の政府への不満と比べると一貫性という点では欠如している印象もうける(昔のが一貫性あるかもそんなに明らかではないが)
(1)は民主主義のように聞こえるが?
(2)と(4), (3)と(5)はそれぞれ整合するのか?
(2)政府や学術は差別してはいけない (4)民間はその雇用の根拠に国籍、宗教、人種、性別などを含めても許されるべき ということ?
まあ営利企業は差別してると競争で損するので政府がわざわざ罰しなくてもいいけど、学術は損したとしても採用の意思決定をする人にはそこまでダメージが入らないので差別を防ぐインセンティブがない、という理由で整合させることができるかも
"The private sector must be free to use examinations as well, and any form of discrimination must create liability."という部分からすると民間企業が雇用差別するのも法的に措置できる状態にあるべきと言っているように見えるが、(4)連合結社の自由とはどういう関係にあるのか
もしかすると差別すると (違法ではないが) 損するという意味で liability と言ってるのかも??
(2)は平等を唱えてる。よく考えるとヤーヴィンは平等が悪いとは言っていないのか。
equal protection of the lawsは法の下の平等に当たるものだろうからリバタリアンも擁護するか(これを書いたときのヤーヴィンにリバタリアン要素はもうないが)
しかし、フォーマリズムは「権利について重要なのは明確に定まっているということで、権利が平等かどうかはどうでもいい」という立場に思える
平等にするというのは1つの定め方ではあるけれども
(10)のように政府が雇用を生み出すために消費者の効用を損なっていいなら、(2)(4)の(政策としての)アファーマティブアクション反対というのは弱くならないか?
アファーマティブアクション法が悪いと、消費者の効用に訴えずに主張できるのか?
結社の自由を自然権的にとらえたうえでそれに基づいてアファーマティブアクション法に反対するとかなら、消費者の効用に訴える必要はないけど、結社の自由に基づいて雇用主が好きな人を雇う自由があるなら、なぜ外国人を雇うことを政府が禁じる? という問題にやはりなると思う
人種に基づいてその雇用に優先することを強制するのはダメだが、自国民の製品を優先して買うことを強制するのはいいんですかね。どちらも取引/契約の自由を制限しており、消費者に悪い影響を持つ可能性があるという点では同じ問題に見えるが
(10)
自国民の労働需要を優先
(そもそもこの時のヤーヴィンはすでにネオカメラリズムをそんなに推してないけど) ネオカメラリスト政府は、そのインセンティブに従えば、より高い税を払う移民を入れることを現在の国民が失業したりすることより優先するはずだが、ヤーヴィンの要求はそれに反している
ネオカメラリズムのもとで国民というのは単にテナントに過ぎないんだから、自国民中心のようなことはあまり意味がなくなるはずなのに?
特に、現在のテナントと、潜在的なテナントの効用について、どっちを優先するとかいうことはないのでは?
企業が新規顧客とリピーターのどちらを優先するかという程度の問題でしかない!
関連リンク
ヤーヴィンがGoogle社を訪問したところ彼が秘密のブラックリストに入っており、退去させるようにする自動指示があったらしい! (実際に退去させられたのかは知らない)
これはGoogleとの裁判におけるダモア他側の文章であるが、そもそもこの裁判は勝てると思ってなくて、単に告発としてやっているという説もあるらしい
その場合は、内容を勝てる論拠に絞る必要はないのでテキトーなことも入ってるのかもしれない?
外部サイトでのヤーヴィンのコメント
YouTubeにいくつか最近のインタビュー動画がある
外交政策について
社会科学についての議論
ヤーヴィンのGene Expression (GNXP) でのコメントは今はコメント欄のサービスの終了のため見れなくなっているが、Unz Reviewのサイトにクローンがある
歴史上の犯罪率の増減について
コメント欄: Universalism, Puritan, New England
ヤーヴィンは「左派はニューイングランド由来の伝統だ」と言うのに対し、反ユダヤ主義? みたいな人が「左派はユダヤ人の影響が大きい」と言って、論争している
コメント欄で反ユダヤ主義について
オーストリア学派経済学について
ヘーゲル
Obviously, unlike Daniel Larison(*), I am much too intellectually honest to engage in the notorious pastime of “insulting upward.” (And Daniel, really. Your blog used to be good and now it is starting to suck, because you are turning into a pundit. I’m sure you are quite aware that it is an astonishing abuse of history to describe Hegel, who really made no distinction at all between God, himself, and the State, as a “moderately liberal constitutional monarchist.” Nor is this an isolated misdemeanor. If you could just stop cruelly mocking Jonah, who is not as smart as you and doesn’t deserve to be treated this way, they would probably let you onto the Corner, where I’m beginning to think you’d fit in perfectly.) コメント欄でDaniel Larisonとの論争が始まる
クーネルト=レディン、ホップ、ヤーヴィンの王制と自由経済を結びつけようという努力に反し、ウィーン体制で知られるオーストリア外相・(のちに)宰相のクレメンス・フォン・メッテルニヒは保守的社会主義とされる立場を唱え、君主が自由な経済的力に対し人民をパターナリズム的に保護することを掲げていたらしい
ヤーヴィンが元ネタであろう、アメリカ合衆国は王によって統治されるべきだと信じ、カーライルについて講義をする"neo-reactionary monarchist"(新反動主義の君主制主義者)であるMaurice Antonovというブロガーが出てくるシャーロック・ホームズ原作のドラマがあるらしい
universalism
進歩主義運動の (ヤーヴィンの語る歴史における悪役である) Edward Bellamy は意外とヤーヴィンと似てるらしい
ヤーヴィンが左派をバラモンエリートとすることへの疑念
著者のTGGPによると、実際には大卒者は、学部卒の場合 どちらかというと右派によっている
(年齢の影響があるので学部生自体は条件つけしない確率 (P(左派)) よりは左派によりそうな。同じ年齢で学部卒の人が高卒者より左派によるということはないということか)
ヤーヴィンは軍隊のようなヒエラルキー・指揮系統を右派的な組織の理想と考え、軍が右派に寄るのはそれで説明できるというが、実際には軍の中でも officer (なんと訳すんだろう。武官?) が保守主義寄りであるに過ぎないらしい
高学歴は必ずしも左翼ではない
インドのバラモンより中国の官僚にたとえたほうが良かろうというのは自分も思った
ヤーヴィンの主張に似ている
新反動主義に関するメディアの記事のまとめ
他人のブログのコメント欄に出没したときは自分のブログで書いてるときに比べなんとなく精彩を欠いている印象もある(Scott Aaronsonとの論争など。とはいえ、Nick Szaboのブログでコメントしてるときなどは割とうまくやっていたけど(Nick Szaboの価値観はよく知っているのでやりやすいのだろう))。
評価
非常によく論じられていている。
(ただし、1章は「現代と昔どっちがいいか」という話。ハンス・ハーマン・ホップのような「たしかに現代のほうがいい。しかし民主主義etc.がなければもっとよかっただろう」には1章の議論は効果がない (か? 技術進歩だけで現在が良くなってることを説明できるならそうだけど…でも技術進歩が武器などではなく、医療だったりするのは、社会がある程度よくないとできない))
But some of my smarter readers may notice that “your power can only be removed by killing you” does not actually make you more secure. It just makes security a lot more important than if insecurity meant you’d be voted out and forced to retire to your country villa.
(たとえばエリザベス女王の前には何人もの可能の王が殺されたし)殺せば権力を奪えるという点で君主制は別に安定的ではないという批判
王位継承権持った奴がいっぱい居るのはなるほどやばいね
ただ、ヤーヴィンが言っているのは王政では継承法があるゆえに、王を殺したからといって必ず次の王になれるとは限らないという点で独裁制とは違うということだけど (自分自身も継承権を持っている場合は、次の王になれてしまうけれど)。
軍人皇帝時代
色んな王朝の、家系図と王位継承の情報を比較して、歴史上の君主制国家でどの程度世襲が安定しているのか、調べてみるといいかも。
But why would a CEO or other corporate governor create such〔引用者注:長期的な視点を持った〕 a structure? Well, although Reactionaries mock elected politicians for having a four-year time horizon, the average CEO stays only 6.8 years. That’s less than a two-term president. And their own incentives are often also based on bonuses linked to short-term profitability.
平均的な民間企業のCEOの在位期間は6.8年で、これは2選の大統領(8年)より短いので、民主主義が短期的な視点を持つが王政は長期的な観点を持つとするハンス・ハーマン・ホップの考えの王政の部分を、ネオカメラリズムに置き換えて、ネオカメラリズムは長期的な観点を持つだろうとすることはできない。
ヤーヴィンは社会は時代とともに左派的になっており、そして報道を社会を左派側に進めていっている原因としているが、昔のニューヨークタイムズの同性愛にネガティブな記事があり、報道ではなく当事者から進んでいったのではないか、とスコット・アレクサンダーは反論する。
同性愛の権利運動はドイツなどから始まっており、ヤーヴィンがいうように左派の運動が常にアングロサクソン系の報道や学術から始まっているわけではないという指摘
ヤーヴィン/新反動主義 への評価や言及あるいは関係しそうなものへのリンク
新反動主義者の「社会は時代とともにどんどん左翼になる(名誉革命、アメリカ独立戦争、アメリカ南北戦争、第一次・第二次世界大戦) (ヤーヴィンがW-forceと呼ぶ)」という考えへの批判
Do conservatives always lose? This might be the founding myth of the “New Right.”
The truth is much more boring. The right has won many policy victories over the decades through normal politics. They’re just mad about the culture. But that can change too.
1. Unless you cherry-pick the time and place, it is simply not true that society is drifting leftward.
…
2. A standard leftist view is that free-market “neoliberal” policies now rule the world. I say they’re grossly exaggerating, but there’s a lot more evidence for a long-run neoliberal trend than a long-run leftist trend. ブライアン・カプランは、社会が左翼的になるというトレンドよりも、"新自由主義的"になる長期的トレンドのほうが根拠が多いと言っている。
直接的にヤーヴィンへの言及はないが、ヤーヴィンへの嫌味と見れるものがちょくちょくある (現代リベラリズムの起源をプロテスタント主義に遡るような理論や、リベラルは権力への追求によって特徴づけられるというような 政敵についての包括的理論は単純化のしすぎで役に立たないことが多い、と)
ヤーヴィンの好きなジェームズ・バーナムについても、「現代の行政国家について知りたいなら、アリストテレスやジェームズ・バーナムを読むよりも、法学徒が使う教科書を読んだほうがいい」と言っている (アリストテレスへの言及は、ヤーヴィンがアリストテレスの君主制、寡頭制、民主制の区別をよく使うことを意識していてもおかしくない(知らないけど))
(アリストテレスは君主制、貴族制、民主制としているがヤーヴィンは貴族制を寡頭制にすり替えている)
新反動主義の民主主義批判に対する反論
いわく、もし仮に王政の方が良い統治をするインセンティブを持っているとしたとしても、独裁制国家の統計は ずさんな場合が多いという問題がある。仮にインセンティブは社会全体のものと合致していたとしても、国家の状態についてのまともな知識がなければ良い統治をしようがない
公開されている統計が改ざんされてるだけで、上層部は本当の統計を知ってる可能性もあるけど
民主主義において投票者は知識を持っていなくても、期待より生活水準が下がったら政権交代を求めるということにより、政権には生活水準を期待水準に保つインセンティブがある (上の記事でRichard Hananiaも言及している考え)
現状の権力の分析ではヤーヴィンと共通するものの、その権力構造を倒して王政やネオカメラリズムを目指すのではなく 、現状の権力構造は可能な代替案より良いと考え、体制内で改善を目指すべきとする左派モールドバグ主義の説明。
DeepLeftAnalysis、Richard Hanania、Anatoly Karlin(\アッカリ~ン/) らが左派モールドバグ主義とされる。(リベラルエリートによる支配を受け入れているだけで、左派というのは変だけど)
長い時間Unqualified Reservationsのコメント欄でコメントしていたTGGPは、ヤーヴィンは想像力があり、それを伝える才能があるが、個々の主張はしばしば矛盾したもの、あるいは単に偽であり、これらの特徴は真理の追求よりパフォーマンスアートに近いものだと言っている
Beyond the fascistic language, Yarvin’s theory of how public organizations work is also a pure fantasy.
この人どれくらいヤーヴィンのこと知ってるのかな。Retire All Government Employees みたいな主張だけ見てコメントしてる感じする。
カーティス・ヤーヴィンとフーコーの類似性が指摘されてる
インセンティブ構造に基づく演繹的な話だけでは限界があり、実証的な話もしない限り現実の問題について評価を下すことはできない。この教訓はヤーヴィンにも刺さるのではないかと思う。
まあヤーヴィンは歴史の話もするので、演繹的モデル一辺倒ってだけではないけど
ヤーヴィンが影響を受けたミーゼス、ロスバード、ハンス・ハーマン・ホップらのオーストリア学派経済学は実証を嫌いアプリオリな前提と演繹のみを方法論として認めるからそれの影響っぽい
なんとなくヤーヴィンと同じ文脈を感じる (クライメートゲート、イラク戦争、金融危機によるエリートへの不信、インターネット・ブロゴスフィアの勃興)
これは独裁制を支持するように見える部分だけを引用し、その理由や限定は引用しないし具体的に反論するわけでもないなかなかアレな記事。よく調べてはいるかもしれない
Mencius Moldbug recommended a number of books in this post, and I’ve just gone through a few of them.
ヤーヴィンの「アメリカのカースト」論と、他のアメリカ階級論との比較がある
Many conservatives I read like to push the theory that modern progressivism is descended from the utopian Protestant experiments of early America – Puritanism and Quakerism – and that the civil war represents “Massachusetts’ conquest of America”. I always found this lacking in rigor: Puritanism and Quakerism are sufficiently different that positing a combination of them probably needs more intellectual work than just gesturing at “you know, that Puritan/Quaker thing”.
Then we have to attribute both the mass slaughter of the 20th century and the lesser slaughter of the golden past to exclusively political rather than technological causes. And that is just absurd. How do you suppose the Muslim conquest of the Maghreb, the Thirty Years’ War, or — Mencius — the Warring States Period would have gone if air forces, heavy artillery, and nuclear weapons had been available?
この記事も良い批判だと思う
Cathedral 概念への批判
新反動主義者の、「マイノリティが悪い結果になっているという統計があると、社会正義運動家は他の原因を検討せずそれは差別のせいだと結論に飛びつく」「その結果、みな差別について考慮することにエネルギーと時間を浪費している」という主張に対し、差別以外の原因では説明できないような統制された厳密な実験/調査を紹介する記事。
無意識の連合テスト、
(無意識の連合テストは最近は批判されているようだが)
他の条件が同等だが人種だけが違う人を集めてきて企業が雇用するかどうかを比べる実験、
全く同じ履歴書で名前を特定の人種や性別っぽく変えた場合に、雇用するかどうかが変わるか調べる実験、
などを紹介している
(履歴書だけでは十分な情報ではないので、それが(真の)統計的差別なのか、誤った偏見、好みの差別なのかは明らかではないという指摘がある) (言っているのは差別があるかどうかであって何による差別なのかではないとも返せるかもしれないけど)
どっちが正しい?
Bryan Caplan は労働市場を十分に競争的だと仮定している点に問題があるのでは
いや、売ってる商品の市場が競争的なら労働市場が競争的でなくても成り立つのでは
別にスコット・アレクサンダーの言ってることとブライアン・カプランの言ってることは矛盾しなくて、雇用差別はあるけど雇用差別する企業は倒産してくってことかな。
カプランの議論によれば、市場が均衡状態なら雇用差別はないことになるけど、均衡に至る途中で雇用差別があることとは矛盾しない。
Matthew Yglesiasによる『ベル・カーブ』批判
ヤーヴィンの政治思想は、新反動主義にくわえ、state capacity libertarianism, structural libertarianism, national conservative, new right などに含まれる?
New Rightみたいな名前の付け方、いつかnewではなくなることが分かってるんだからやめてほしいよね(そもそもすでに別のイデオロギーでnew rightと呼ばれているものもあるし: New Right - Wikipedia) policy libertarianism vs. structural libertarianism
社会全体で見ると金持ちよりも貧乏人のほうが多いので、民主主義になると富裕層の財産が脅かされるようにも思えますが、実際にはそうなりません。ロシアの大富豪が殺されたり投獄されたりするのを見れば、むしろ民主主義国の方が金持ちの財産を守っていると言えるでしょう。
人種と奴隷制
ayu-mushi.iconこれはヤーヴィンがキャンセルされた/されそうになったときに問題になった論点だからなんとなく野次馬的に載せた項だけど、奴隷制が認められることになるのか? という点は彼のフォーマリズムに関してという意味でも興味深い論点なので けさないで残してある
これが (いくつかの技術系カンファレンスでヤーヴィンが発表するときに問題となった) 人種差別と奴隷制に関する発言かな 〔これはカーライルの意見の紹介という文脈なことを書いておくべきだった〕:
In all these relationships, the structure of obligation is the same. The subject, serf, or slave is obliged to obey the government, lord, or master, and work for the benefit of same. In return, the government, lord or master must care for and guide the subject, serf, or slave. We see these same relationship parameters emerging whether the relationship of domination originates as a hereditary obligation, or as a voluntary obligation, or in a state outside law such as the state of the newly captured prisoner (the traditional origin of slave status in most eras). This is a pretty good clue that this structure is one to which humans are biologically adapted.
Not all humans are born the same, of course, and the innate character and intelligence of some is more suited to mastery than slavery. For others, it is more suited to slavery. And others still are badly suited to either. These characteristics can be expected to group differently in human populations of different origins. Thus, Spaniards and Englishmen in the Americas in the 17th and earlier centuries, whose sense of political correctness was negligible, found that Africans tended to make good slaves and Indians did not. This broad pattern of observation is most parsimoniously explained by genetic differences.
もちろん、全ての人間が同じに生まれているわけではなく、ある人々の生得的な特質と知能は奴隷より主人に向いている。
他の人々は奴隷に向いている。また、その他はどちらにも向いていない。
それらの性質は異なる起源の人間集団によって異なって分布していると予測できる。
だから、17世紀やそれ以前のアメリカにおけるスペイン人やイギリス人(その政治的正しさへの感覚は無視できる量である)は、アフリカ人は良い奴隷にでき、インディアンはそうでないことを発見した。
この観察の広範なパターンは遺伝的差異によって最も倹約的に説明される。
インディアンより黒人の方が奴隷に向いているらしい
インディアンを奴隷にするのやめたのは向いてなかったからなの?(最初の方にエンコミエンダとかで鉱山強制労働はしてたような)
インディアンは奴隷にすると死にやすかったってことか?
15世紀末に始まったスペイン・ポルトガルのアメリカ新大陸植民地経営では、当初インディオの奴隷労働が行われたが、急激に人口が減少したため、16世紀からアフリカ大陸の黒人奴隷を供給する大西洋奴隷貿易が始まった。
Not all humans are born the same, of course, and Carlyle (following Aristotle) takes the view that the innate character and intelligence of some is more suited to mastery than slavery. For others, it is more suited to slavery. And others still are badly suited to either. These characteristics can be expected to group differently in human populations of different origins. Thus, Spaniards and Englishmen in the Americas in the 17th and earlier centuries, whose sense of political correctness was negligible, found that Africans tended to make good slaves and Indians did not.
あ、こっそり編集されて、地の文じゃなくてカーライルがこういう意見を取っているという文になってる
職業のように向いているか向いていないかというの自体、ミスリーディングではないかという気がするが (奴隷化が自分の判断なら別にせよ)。(アリストテレスは奴隷に向いている人がいると考えたけれど)
豚は食べられるのに向いている というのは豚にとって向いているわけではない
Moldbug: …
Slave labor is actually an excellent example of the Fnargl principle. If you assume security is not a problem, serfdom is always more profitable than slavery and taxation is always more profitable than serfdom.
The profit of slavery is equal to the difference between the price of slave labor and the price of free labor. This vig or rake-off can be replaced with an income tax without changing the economics of the game at all. And once this is done, why shouldn't the slave - now a serf - be able to change jobs? The more he makes, the more you make. -- "対称的主権の魔法" (この文章はちょっとわかりにくい。the price of free laborというのは雇用者が賃金として払うお金を指しているのだろうか。the price of slavery は奴隷を使役する際にかかる費用なのかな?)
農奴制などとは区別された狭義の)奴隷制を大して評価してないようにも見える
――いや、この奴隷→農奴→臣民という移行が適用できるのは、奴隷が十分に合理的である場合に限るのか
強制労働ではなく自由労働+徴税になるとしても、分配の平等性について何ら気にしないという前提を置かないとその状況は擁護できないのでは
あくまでネオカメラリズム政府が徴税を行うことはその政府が所有権の保護を行うことの価値と比較して許容できると判断しただけなら、所有権の保護も行ってくれない奴隷の主人が徴税を行うことは意味がないしトータル的に悪いのでは
奴隷制はピコ政府で農奴制はミクロ政府なのだという
でもパッチワークでは住む国の選択ができるのに対し、奴隷制の場合は選択ができないのだから、そこは大違いじゃないのか。
exit right の存在という一点で、ネオカメラリズムと奴隷制が異なっていたのに、そこをはずしたために、奴隷制を擁護することになったのではないか
A sensible way to house criminals is to attach them as wards to their revenue streams, but let the criminal himself choose a guardian and switch if he is dissatisfied. I suspect that most criminals would prefer a very different kind of facility than those in which they are housed at present. I also suspect that there are much more efficient ways to make criminal labor pay its own keep.
ヤーヴィンは「主権とは所有権である、所有権とは所有物に何でもできる権利である。憲法による制約など意味がない」という極端な観点をとっているので、奴隷制と主権国家に違いがないということになるのだろう (たしかに絶対王制と奴隷制に被治者の人数以外の違いを求めるのは難しそう)。
概念の定義に基づく議論 (「主権」「政府」のような) は、経験的な内実を持たないので、主権、政府の定義をヤーヴィンのように捉えた場合、単に「その定義ではアメリカ(政府)や日本(政府)は主権国家/政府ではないですね」という結論が得られるだけとなる可能性がある。
ヤーヴィンは、「定義より〜」といって実質のある主張を滑り込ませる議論を多用しているが、このような反論に遭うだろう
裁判などの法に則った手続きを経て拘束を行う近代的な法治国家と、主人の気まぐれでむち打ちできる奴隷制が本当に同じか
それも結局最高裁判所の気まぐれだみたいなことを言っているけど、本当か
ヤーヴィンも法の支配は支持してたはず…
国家一般と奴隷制に違いはないかもしれないが、近代的な法治国家と奴隷制に違いはあるのでは
奴隷制でも原理的にははそのようになることはありえなくはないが。
国家だと、被害者同士が同じ被害を共有できるので話し合いから改善につながりやすそう?
国家が私利の追求によって自分自身の権力の使用を制限し、同様に所有権の生み出すインセンティブによって勝手に奴隷の主人が自分自身の権力を制約する、などということはあるのか ?
ヤーヴィンは警察に身体権を侵害される場合よりも犯罪者に身体権を侵害される場合のほうが多い/重大なのだから、リバタリアンは警察の権限拡大を支持するべきだと論じていたが、その論法で行けば奴隷が鞭打ちなどにより身体権・自己所有権を侵害されているほうが多い/重大なのだから、南北戦争のときに南側の分離の主張を認めないことも支持できるのではないか
(人権侵害国家に武力侵攻することも認められる? フォーマリズムには反するけど。)
ヤーヴィンは「常に非集権的な側を支持すべきだ」というルールを持っているわけではないということだから
Moreover, just because the relationship of slavery or serfdom is personal by default, does not imply that it cannot be made impersonal, like the relationship of subject to government. If the client is not one of Aristotle’s natural slaves, has an IQ over 90, is an adult, and can provide his or her own personal guidance, the subject–government relationship may be a better fit. The master may maximize his economic benefit by simply allowing the slave to negotiate his own employment and living arrangements, and taxing him. Thus the parallel reemerges.
IQは1標準偏差が15で (16とする場合もあるらしい)、軽度知的障害が50~70。
平均100, 標準偏差15の正規分布を仮定すると人口の約25%がIQ 90以下だ。
だから、IQ90以上って結構厳しいぞ。
十分条件として言ってるだけかもしれないけど。
もし必要十分条件として言ってるなら人口の約4分の1以上は、ランダムに選ばれて奴隷化されたと仮定した時、その人に職業の自由を選ばせて徴税するのではなく、いちいち指図したほうが良いって言ってるってことだ。
人口の3/4にしか自由は要らないのか?
Yarvin(文中より。ただしこれは奴隷制に関する文章ではなく、自由の概念について): For example, I don't think the conversion of Southern slaves into Southern sharecroppers made anyone much freer, because it created few practical options for the people involved. Before, you were an agricultural laborer who worked on the same farm for your entire life; after, ditto.
たとえば、私は南部の奴隷が南部の分益小作人 (シェアクロッパー) に変わったことで、誰かがより自由になったとは思わない。なぜなら、関連する人々について少しの実際的な選択肢しか生み出さなかったからだ。奴隷解放以前は、全人生を同じ農場で働く農業労働者だった。奴隷解放後は、以下同様。
TGGP: Christ, that's moronic. The option to leave your employment if you do not find it satisfactory is a huge benefit EVEN IF YOU STAY WHERE YOU ARE. Are you unfamiliar with the concept of competition? I seem to recall your "Patchwork" idea being based on it. You even mentioned "fleeing ASAP before the minefields are set" just a few paragraphs above! People actually crossed several states in order to reunite with family, we can be confident they saw themselves as improving their situation.
とんでもない、そいつは馬鹿げてるよ。職を実際には変えないにしても、不満なら職を変える選択肢があるというのはすごい利益がある。お前(=ヤーヴィン)は"競争"って概念を知らないのか?
君のパッチワークの考えは競争に基づいたと記憶しているが。
しかも、この文の数段落前に「地雷が設置される前に可能な限り早く逃げる〔ことができるのは重要であるという〕」ことについて言っていたし。
人々は家族と再び会うためにいくつもの州をまたいだし、彼らが状況が改善していると思っていたことは確証がある。
TGGP:
"Can you demonstrate that the effective wages of former slaves rose over time after 1865 as a result of this competition?"Yes. All it took was a bit of googling. When Murray & Herrnstein set out to make a controversial thesis they buried their audience with data. The "sharecropping = slavery" point rests entirely on assertion. "あなたは1865年の後にその競争によって以前に奴隷だった者の実効賃金が上昇したことを証明できるか?"
できるよ〔この引用部分によると、シェアクロッパーになったあとには、黒人の農作物の取り分が22%から56%になり、所得ではドルにして30%の向上があったらしい〕。ちょっとググるだけだ。 マレー&ハーンスタインが論争的な主張をしようとしたときは聴衆をデータで葬った。
ヤーヴィンの「奴隷=分益小作人」というのは根拠なく主張しているだけだ。
奴隷と分益小作人の自由度に区別をしないということは、ヤーヴィンはリバタリアン的な形式的自由の概念とは違うより実質的な自由の概念を持っていることになる?
TODO: ロスバードやハンスハーマンホップの奴隷制論と比較する
ヤーヴィンに影響を与えたリバタリアンのロスバードやハンス・ハーマン・ホップは奴隷制についてヤーヴィンとは全然違う主張である。
ロスバードは、世襲的奴隷制のみならず、(ロスバードはリバタリアンだが) 自己奴隷化契約の有効性まで否定した。
ホップは、自己の身体の占有を譲渡することは物理的に不可能である (自分の肉体を動かすことは常に物理的には可能である) というフォーマリズムと似た観点から同じく自己奴隷化契約に反対した。
ヤーヴィンとしては、主権を所有権をみなす都合上、国家が身体を拘束したりできることから他人の身体を占有することはは物理的に可能であるとしているのだろう。
ヤーヴィンは契約については自己奴隷化契約による自発的奴隷制を認めるのみならず(自発的な自己奴隷化契約はウォルター・ブロックも認めていた気がするが)、占有に基づく時効取得としての奴隷制や、先祖が自己奴隷化契約を結んだ結果としての非自発的奴隷制も容認していることがある (昔の記事では先祖の契約により子供が奴隷にすることは認めていないのもある)
主権を所有権の一種として見るフォーマリズムの観点からは、人を合意なく所有できるというのは自然な結論ではある
そうでないなら、政府が人に主権を行使するのにも、合意が必要ということになるだろう
1. This paragraph has proven to be one of the most controversial in the Moldbug corpus. Some feign outrage at the notion that “Africans tended to make good slaves,” intentionally misreading this as an endorsement of the idea, while also stripping it of critical historical context. But the observation that 17th-century Spaniards and Englishmen found Africans to be better slaves than Indians is hardly controversial—how else to explain the transatlantic slave trade?
Meanwhile, there are those who fret about the suggestion that genetic differences between different populations might account for some of their differences in behavior. Such people would do well to educate themselves on the actual research on the subject, as well as to consult their local dictionary regarding the word parsimonious. Genetic differences aren’t the only explanation for the source of the observed disparity—just the simplest (most parsimonious) one.
Indeed, there is no question that genetic differences made Africans better slaves than indigenous Americans in at least one respect: due to superior genetic resistance, Africans were much less likely to die of tropical diseases like yellow fever and malaria. Those who can’t admit that a live person makes a better slave than a dead one are well beyond the reach of reason.
この段落はモールドバグの語録のなかで最も論争を呼ぶものとなった。
ある人々は、「アフリカ人が良い奴隷になる傾向にあった」という文に怒る素振りをしたが、それはこの文を意図的に誤解してその考えの擁護というふうにとり、その批判的な歴史的文脈から切り離している。
しかし、17世紀のスペイン人とイギリス人がアフリカ人がインディアンよりよい奴隷になると考えたことはぜんぜん論争の余地はない。
というのも、それ以外に大西洋を越えて奴隷貿易をする理由が説明できるだろうか。
同時に、ことなる集団間の遺伝的な差異が行動上の差異の一部を説明するという可能性に対しいらだつひともいた。
そういう人は、この主題についての実際の研究を学ぶべきだし、「倹約的」という言葉を辞書で引くべきだ。
遺伝的差異が観察される違いの唯一の説明だと言っているわけではない。もっともシンプル(倹約的)な説明だと言っているのだ。
じっさい、遺伝的差異がアメリカ先住民よりアフリカ人を良い奴隷にする理由のうちの1つは疑いがない: すぐれた遺伝的抵抗性によって、アフリカ人は黄熱やマラリアといった熱帯病に感染しづらかった。
生きている人間が死んでいる人間より良い奴隷になるということを認めない者は理性の範疇を越えている。
うn死んだら奴隷にできないね
I strongly believe that no matter how atrocious the distribution of real power in society, even if it involves actual slavery, law is always better than non-law.
Slavery is not good, but legal slavery is better than illegal slavery.
(Think how much better off both North and South, white and black would have been, for example, if the North had bought the South's slaves rather than fighting for their freedom - okay, they weren't fighting for freedom, they were fighting for the Union, but that's a whole separate argument.)
私は現実の権力分布がどんなに凶悪なものであったとしても、それがもし奴隷制を含むものであったとしてさえ、法がある状態は法がない状態より好ましいことを信じる。
奴隷制は良くないが、法的な奴隷制は違法な奴隷制より望ましい。
(アメリカの南北戦争で、戦争で彼らを解放しようとする代わりに、北が南から奴隷を買ったらどんなに良かったか考えてみてほしい ーーオーケー、北はアメリカ連邦のために戦ったのであって解放のために戦ったわけではなかったね、しかしそれはまた別の話だ)
それって新たに奴隷が作られないという仮定の上でしか成り立たなくない?
新たに奴隷が作れるなら、スーダンの奴隷を買うボランティアみたいになるのでは
さらには露骨に悪いのもいる。有名な例では、スーダンには奴隷を買うNGO/NPOと いうのがいる。売られているかわいそうな奴隷を買ってあげて、解放してあげましょ う、というわけ。もちろん、奴隷商人にしてみれば、こんないいお客はいない。ふつうは売れないようなダメ奴隷でも(いやむしろそのほうが)、こいつら喜んで買ってくれるもん。というわけで奴隷商人の上得意客になり果てて、やめさせたいはずの奴 隷取引の延命に手を貸す結果となって、他の団体からガンガン非難されているんだけ れど、かれらは自分たちがいいことをしていると確信しているから、聞く耳持ちやし ないのだ。いやぁ、すごいなあ。でもその人たちの様子が想像つくだけに、笑えないよね。
新たな奴隷の輸入は奴隷解放以前に、既に禁じられていた?
こうした動きの中、アメリカ合衆国では1808年に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花プランテーションで奴隷を使役したいアメリカ合衆国南部の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナンからモービルに110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号であった22。その直後に勃発した南北戦争で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国(南軍)が敗北。1865年に奴隷制が全廃された。 南北戦争に向かう時代、奴隷を束縛状態から買い上げるために金を集め、…
フォーマリズムにおける自己の肉体の所有の扱いはどうなるんだろうか。他のものであれば friction は限定戦争だけど自己の肉体の場合全面戦争になる気がする (いや自分の肉体より重要なものがあるひともいるだろうが)
ノージックは、奴隷制と政府は連続的だから政府は悪いみたいなリバタリアン的議論をしたんだと思うけど、ヤーヴィンは逆に奴隷制と政府に違いないなら、奴隷制の何が悪いのかみたいな。
The fact that people are born and die introduces a complexity into this nice system of interacting agents in a scarce resource environment. A good example is one your question implies: can you sell your children into slavery?
Formalism is not an abstract good. It is not good because it is good. It is good because it achieves its purpose, and its purpose is to prevent violence (actually, I now think "chaos" is a better word, violence is overexposed) - that is, the combination of conflict and uncertainty.
It does this by holding people to their own promises. Holding a person to a promise their parents made for them doesn't compute. It is much more likely to be recognized as invalid by all parties, leading to uncertainty etc.
So a reasonable formalist approach to parental custody, I think, gives parents complete potestas over their children until emancipation at maturity, but no power to contract on their behalf.
初期の頃は自分の子供まで含めて奴隷化する契約を結ぶことは認めていない
So, for example, A may promise to B that he will serve B faithfully for the rest of his life, and B may have him whipped if he disobeys. In fact, since parents own their children, A may consign his child C to this same relationship, and so on through the generations. B, of course, presumably makes some promise in return for this remarkable concession.
しかし後には認めている
I admit it: I am a pronomian. I endorse the nomos without condition. Fortunately, I do not have to endorse hereditary slavery, because any restoration of the nomos begins with the present state of possession, and at present there are no hereditary slaves. However, if you want to sell yourself and your children into slavery, I don’t believe it is my business to object. Try and strike a hard bargain, at least. (A slightly weakened form of pronomianism, perhaps more palatable in this day and age, might include mandatory emancipation at twenty-one.)
現在の占有を守るので、現在奴隷がいない以上、奴隷制を擁護する必要はないといってる。
しかし、自分とその子供を含めて奴隷として売ったとしても問題ないと言っている (自然な解釈では、自分は売らないで子供だけ売る(至言)というのも認めていることになる気がする)。
slavery
LessWrongと新反動主義の関係
が指摘されるが
結論: あまり関係無いらしい。という割にはディスカッションが長く続いてるけど…関係がないと言うか、単に支持者が少ないという統計かな。
[EDIT by E.Y.: The answer is that he's not popular here. The 2012 LW annual survey showed 2.5% (30 of 1195 responses) identified as 'reactionary' or 'Moldbuggian'. To the extent this is greater than population average, it seems sufficiently explained by Moldbug having commented on the early Overcoming Bias econblog before LW forked from it, bringing with some of his own pre-existing audience. -- ]
〔どうしてLessWrongでメンシウス・モールドバグが人気なのかという問いへの〕答えは、モールドバグはLessWrongで人気というわけではないということだ。2012年のLessWrongの年毎調査では、2.5%(1195の回答のうち30人)が「反動主義」もしくは「モールドバグ主義」と自認していた。一般的な人口における平均よりも高い率に関しては、LessWrongが Overcoming Biasの経済ブログからフォークする以前、モールドバグがそこでコメントしていて、もともといた彼の読者を連れてきたことによって十分に説明されるだろう。
(ユドコウスキー(E.Y.)としては評判上あまり結び付けられたくないという思惑もあるだろうが)
ヤーヴィンとエリエゼル・ユドカウスキーは、会ったことはあるようである
ユドコウスキーはヤーヴィンのコンピュータ・サイエンスに関する記事から好意的に引用したことがある。
"It's possible to describe anything in mathematical notation. I recall seeing some paper once in which someone had created a mathematical description of C. (I forget whether or not this included the preprocessor.) As an achievement, this is somewhat like building a full-size model of the Eiffel Tower out of tongue depressors. It's clearly not the act of a talentless man, but you have to wonder what he said when he applied for his grant."
-- Mencius Moldbug
@ESYudkowsky: @Meaningness @EgeErdil2 Curtis Yarvin isn't a "trope". This is the same guy who mocked me for worrying that an AI could take over computers given Web access, saying that I didn't know how the HTTP protocol worked and that nobody could take over the Internet if only allowed HTTP GET requests. The first mention of Bitcoin on Less Wrong, a post called Making Money With Bitcoin, was in early 2011 - when it was worth 91 cents. Gwern predicted that it could someday be worth "upwards of $10,000 a bitcoin". He also quoted Moldbug, who advised that:
> If Bitcoin becomes the new global monetary system, one bitcoin purchased today (for 90 cents, last time I checked) will make you a very wealthy individual...Even if the probability of Bitcoin succeeding is epsilon, a million to one, it's still worthwhile for anyone to buy at least a few bitcoins now...I would not put it at a million to one, though, so I recommend that you go out and buy a few bitcoins if you have the technical chops. My financial advice is to not buy more than ten, which should be F-U money if Bitcoin wins.
ミハエル・アシニモフというLessWrongに居た新反動主義者はLess WrongというのにモジってMore Rightというサイトを運営していたが、ユドコウスキーはMore Right はLess Wrong公認ではなく、Less Wrongの側から大してリンクされていないとして関係を否定している。
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いやこれだとふつうの文章に出てくるmore rightも含まれてしまっている…
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これも普通の文章に出てくる moreやrightがヒットしてしまってる
yudkowsky: ...
"More Right" is not any kind of acknowledged offspring of Less Wrong nor is it so much as linked to by the Less Wrong site. We are not part of a neoreactionary conspiracy. We are and have been explicitly pro-Enlightenment, as such, under that name. Should it be the case that any neoreactionary is citing me as a supporter of their ideas, I was never asked and never gave my consent. Some kind of note in the article to this effect seems appropriate. Thanks.
Also to be clear: I try not to dismiss ideas out of hand due to fear of public unpopularity. However I found Scott Alexander's takedown of neoreaction convincing and thus I shrugged and didn't bother to investigate further. Democracy has many known malfunctions and it may be that some better way for human beings to organize themselves will be discovered. That way, however, shall not be aristocracy, any more than the next theory of gravitation after General Relativity might be Newtonian mechanics. The ratchet of progress turns unpredictably, but it doesn't turn backward.
I'm reasonably sure Patri Friedman (grandson of Milton Friedman) isn't a neoreactionary either, though I can't actually speak for him and you'd have to ask him personally.
ヤーヴィンはElizer Yodkowsky が寄与していたグループブログOvercomingBiasの寄稿者であるロビン・ハンソンと、ハンソンのFutarchy (「ある政策をしたらどうなる」という条件付き予測の予測市場を利用して政治的意思決定を行う政治システム) について対談している https://www.youtube.com/watch?v=Tb-6ikXdOzE
Alexander is a disciple of the equally humorless "rationalist" movement Less Wrong, a sort of Internet update of Robespierre's good old Cult of Reason, Lenin's very rational Museums of Atheism, etc, etc. If you want my opinion on this subject, it is that - alas - there is no way of becoming reasonable, other than to be reasonable. Reason is wisdom. There is no formula for wisdom - and of all unwise beliefs, the belief that wisdom can be reduced to a formula, a prayer chant, a mantra, whatever, is the most ridiculous.
I know a lot of people involved in Less Wrong and I have a lot of sympathy. I even met its charismatic leader, Eliezer Yudkowsky, once. For a reason which at the time I couldn't quite place, he made me think immediately of a historical figure: Shabbatai Zvi. But why? Reading through the comments on Mr. Jones' article, I finally realized why:
この記事ではヤーヴィンはLessWrongをロベスピエールの理性の祭典やレーニンの無神論博物館に喩えて揶揄している。
が、LessWrongに知り合いは多いとも言っている。
ミハエル・アニシモフとノア・スミスの論争があるらしい
参照用: