贋酒性
「贋酒性」は哲学のようでありながら、哲学ではないという、永井均の言葉
/ggkkiwat/贋酒性
中島義道もトーマス・マンの小説については同じことを言ってたなあ → 「贋酒性」について#67e3ff1a7427b70000146fc3。中島はサルトルの『嘔吐』は哲学的小説だと言っていたが、両者の違いは何なのだろう
サルトルの『嘔吐』には「哲学的対話」の場面が少ない気がする。あと中島義道は芥川も三島も漱石も、「哲学者」ではない理由 理解し合えても、賛同し合えない哲学者たち | 哲学塾からこんにちは | 東洋経済オンラインで文学者ほぼ全員哲学者ではないと書いていた。以下引用
ramen.iconおそらく中島が『嘔吐』を哲学的に評価しているのも、対話の場面ではなさそうですね。
本当に『嘔吐』は何度読んでも泣きたくなるほどすばらしい作品です。「現在だけしか存在しない」こと、過去は「自分の思想(〈こころ〉)の中にさえも存在しない」こと、この驚くべき発見を日常的な場面でえぐるように描写することにかけて、サルトルの右に出る者はいない。それは彼が多くの文学者と異なり、哲学の基礎教育を徹底的に受けた本物の哲学者だからです。(中島義道. 『哲学の教科書』 (講談社学術文庫) (p. 106). (Function). Kindle Edition.)
そして、いま言ったことは、そのまま哲学と文学との境も示しています。哲学のテーマは割とはっきり決まっていて、「存在」とか「認識」とか「善悪」、もう少し具体的に言うと「時間」とか「自我」とか「言語の意味」であって、こうした問題に全身で携わっていなければ、あとはどんなテーマにおいて天才的な洞察を示しても、哲学者とは言えない。
まったく同じことが文学者にも言えるのですが、小説家や詩人や評論家は同じ「言葉」を扱うので、哲学者との線引きがいい加減になされることがある。しかし、もう説明するまでもないでしょうが、いかに壮大な歴史物語を描いても、いかに人間心理の機微を抉り出しても、いかに言語の限界に挑戦しても……哲学の古典的問いのうちの1つでもいい、たとえば「存在とは何か?」について、「時間とは何か」について、頭が変になるほど思考していなければ、哲学者ではないのです。
最近、読書会も開催しているのですが、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のところをあらためて読了して、「アリューシャ、神はいるのか?」と気軽に(「いる」の意味を吟味せずに)イワンに言わせているドストエフスキーが、哲学者でないことを再確認しました。
ちなみにこの記述は端的は間違っている。アリョーシャに神はいるのかと訊くのは父のフョードル。イワンはアリョーシャの兄であり、父はイワンにも同じ問いを問う。
ramen.iconほんとだ
また、フョードルは哲学者という設定ではなく、たとえば「いる」の意味を周到に吟味した発言をしたら、矛盾が生じるかもしれない。
また、この場面については哲学的・文学的な吟味が必要だと思う。
もちろん、これはドストエフスキーが哲学者であるという主張ではないし、それは特に本質的な問いではないと思う。
言えるのは、この時点では、中島氏はドストエフスキーをハイデガーがヘルダーリンを読解したように読んでいない。哲学者の文学の読み方はたいてい面白いので、ぜひ中島氏には読んで欲しい。
同じように、トルストイもシェークスピアもカフカもカミュも、そしてわが国の森鴎外も夏目漱石も三島由紀夫も芥川龍之介も哲学者ではない。彼らは、あまりにも人間に興味を持っている。興味を持っていながら、徹底的懐疑は避けている。もしかしたら、「人間はいないかもしれない」など思ったこともない。「『見える』とはとても不思議なことだ」とか、「想起とは過去の事象とは無関係であって、いま起こっていることだけなのかもしれない」とか・・・・思い詰めることはない。
それなりに、(場合によっては狂気に近づくまで)悩んでいるのですが、哲学的には「常識」をしっかり守っている。たとえ存在論らしきもの、認識論らしきもの、時間論らしきもの、自我論らしきものを展開することがあっても、「常識」を出ず、その「常識」の内部で聳える塔を打ち立てている、といった感じです。
そして、前回に繋がりますが、とくにフランスの現代思想のごく近くにいたブランショ、クロソフスキーなど、いやラカンやフーコーですら、ベルクソンやサルトルなど正真正銘の哲学者と並ぶものではないと私は思っているのですが、これは専門的になるので、やめておきましょう。
/ggkkiwat/贋酒性#64b0f8557f4b2700001dc583では、ドストエフスキー、トーマス・マン、埴谷雄高らの作中の哲学的対話が哲学として読むに絶えない、ということを述べている。対話といえば「プラトンの対話篇」を連想する。おそらくプラトンを哲学ではないと言うことはしないだろうから、プラトンの対話篇と上記の作家の「対話場面」を比較すると何かわかるかもしれない。
ramen.icon正直自分は中島や永井が言いたいことはなんとなくわかるのだが、かなり難しい問題だと思う
難しい点の一つは、それが本当に「贋酒」なのか、それとも単に自分がわかってないからそう見えるだけなのかが、判別が難しいこと。例えば、背景知識が全くなく、誰が書いたかもわからない状態で『論理哲学論考』を読んだら、自分は間違いなく「贋酒」認定するだろう(これに対して『名指しと必然性』だったら同じ条件でも「贋酒」認定しないと思う(本当か?))。
イタロー.icon私も中島や永井は正しいとおもいますね。射程が、読み手の問題の話なのでしょうね。さしあたり重要なのは、すでに哲学とは何か、という問いに答えが出ていることかと。しかもその答えは正しいとおもいますね。そして中島や永井が論理ではなく感覚で嗅ぎ分けていること、つまり明晰に短く端的に説明しようとしていないこと、永井が酒というメタファーで哲学を表していることなどが、興味深い。私は、この問題を難しくしているのは、興味深いといった二つの点なんじゃないかと思います。つまり、「文学は物語で、哲学は論理で何かを探求する」といっちゃえばいい。そうした方が問題が難しくならない。贋というのは「本当はそれではないが、それらしいことをしているもの」というニュアンスがあり、酒というのは「人を酔わせ、うっとりさせるもの」だから、ここに二重のねじれが生じていると思う。だから、「文学と哲学は何かを探求しているが、文学は酒であり、哲学が本当の道だと感じる」という風に言い換えれば、分かりやすいと思う。逆に、「哲学と文学は人を酔わせるためにあり、文学の方が酔うことができると思われているが、私は哲学に陶酔を覚える」でもいい。
長くなってしまったので別ページに自分の見解を書きました(笑) → 「贋酒性」について。気が向いたら読んでください。
読みました。かなりおもしろい観点です。どうもありがとうございます。イタロー.icon
文学でも似たような話ありそうな気もするが、どうなんだろう。「〇〇なんか文学じゃない!」とか「〇〇は「純文学である/でない」」とか
とてもいい指摘で、文学はもーーっとひどい状況です。いわばカオス。これについては、いつかちょっと書いてみたいですね。イタロー.icon