「贋酒性」について
もう少し書こうと思ったことがあったが、疲れちゃったので気が向いたら追記する
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射程が、読み手の問題の話なのでしょうね。
少なくとも永井・中島はここでは「書き手の問題」の話をしていると自分は解釈しています。つまり、上で否定的に挙げられている書き手の文章は「哲学っぽく見えても本当のところは哲学ではない」と彼らは言いたい。しかし、これが本当に「書き手の問題」か、「読み手の問題」かは微妙なところだと思います。 別ジャンルで考えてみます。例えば、絵の素人である私からは上手に見えても、専門家から見ればダメダメな絵というものは考えられます。この場合は、専門家の意見が正しく「実際にその絵はダメダメなのだ」となる場合が多いとは思います(つまり、その絵の「描き手の問題」)。おそらく、永井・中島はこれと同様なことを考えていて、上で挙げられているような書き手の文章は、哲学素人から見たら「哲学っぽく見えても本当のところは哲学ではない」と思っている。(ちなみにramen.iconは、「『哲学っぽく見えても本当のところは哲学ではない』と言いたくなるような文章が世の中に存在する」というところまでは彼らに共感できます。上で挙げられている作家たちがそうかは判断できませんが)
問題点の一つは、専門家だって誤る可能性があるということ。絵の場合であれば、たとえば、ある時代の専門家が全く評価しなかった絵でも、後の時代の専門家からは評価されるということはありえます(時代を先取りしていたみたいな)。この「贋酒性」の話でも、「専門家」の判断が誤るということはありうると思います。
問題点の二つ目は、イタローさんがおっしゃるように、永井・中島の説明がだいぶ感覚的だということです。「哲学的ではない」ことをちゃんと説明するのであれば、具体的な文章を挙げて、どこら辺が哲学的に不十分かを指摘するのが望ましいと自分は思います(上の『カラマーゾフの兄弟』の話では不十分すぎると思います)。例えば、中島は『哲学の道場』において、トーマス・マンの『魔の山』の一節を取り上げて、哲学的に疑問符がつくところにツッコミを入れています。これでも十分かどうかは微妙ですが、「哲学的ではない」ことを示すには、最低でもこれぐらいの説明は必要だと自分は思います。(以下、中島による批判部分だけを引用します。厳密に内容を理解する必要はないです。) 「時間の計測は時間を空間化することによる」というベルクソンに代表される見解にも問題は多いのですが、カストルプは一応この見解に乗ってゆく。だが、それからの彼の発言は、混乱以外の何ものでもない。時間を空間で計ろうとするのは「空間を時計で計ろうとするのと同じ」とはいかなる意味なのか、なぜ「同じ」なのか、まったくわかりません。それが「非科学的」であるわけでもなく、もちろん「科学的」であるわけでもない。ここで「科学的」とはいかなる意味なのか、皆目検討がつかない。 さらに、「空間は感覚で認識できる」と言えるかどうかも疑問です。そこに物体が存在しない場合、空間自体は感覚で認識できないでしょう。ですから、「空間は認識できる」と主張する場合でも、その認識はじつは空間のうちにある諸物体を介しているのです。とすれば、時間自体は感覚で認識できないとしても、諸物体を介すれば「時間も感覚で認識できる」と言える。この場合「感覚」という言葉を厳密にする必要があります。視覚や触覚や聴覚に「持続」を含めなければ、私たちは何ものも感覚できない。すると、諸感覚を総動員することによって、目で見る秒針の動きやコチコチという音の連なりによって、私たちは時間を認識できると言ってよいのではないか。
ちなみに、ベルクソンはコチコチという音を「数える」ときに時間という観念が成立すると言っています。私たちがそこに五箇の音を数えるとき、すでに五箇の音を並列し、すなわち空間化し、音の持続自体を空間的なものに変質させている。それが時間測定のはじめであり、時間という観念の成立なのです。ですから、時間を認識する器官がなくとも、だからといって時間が認識できないわけではない。いったい、純粋な円や幅のない直線を認識する器官があるとでもいうのでしょうか。そんなものはありませんが、だからといって幾何学が成立しないわけではないでしょう。 これはかなり面白いですねイタロー.icon
ramen.iconの解釈では、永井・中島の言う「〇〇は哲学(的)ではない」というのは、「〇〇は哲学的議論だとみなすと、不十分な点が多くある」と言い換えられるんじゃないかと思っています。永井の元ツイートを踏まえると、「書き手当人も酒(哲学)だと思っている」ことも「贋酒性」の特徴のようなので、まとめると以下のようになると思います。 1. その文章を哲学的議論だとみなすと、不十分な点が多くある
2. それにもかかわらず、書き手当人や、それを読む一般の人には(十分?)哲学だとみなされている
イタロー.iconなるほど。つまり文章には哲学的であるかどうかという観点があり、哲学者とは、何が哲学であるかを明らかにする人である、ということでしょうか。だとしたら大賛成です。そして贋酒性という観点の重要さ新奇さは大いに肯定します。
ramen.icon
「哲学者とは、何が哲学であるかを明らかにする人である」というよりは、彼らは(ある程度)哲学に精通しているがゆえに、どのような文章が「哲学的である/でない」かを自然と嗅ぎ分けてしまう──これも究極的には「彼らの基準で」でしかないですが──、という感じだと理解しています。これは、上の例でいえば、絵に精通している人が「よい絵」と「よくない絵」を自然と嗅ぎ分けるのとあまり変わらないと思います。
ramen.iconこの「哲学的である/でない」の基準が哲学者・哲学研究者の間で完全に一致しているかといえば、そうでもないと思います。部分的には一致しているでしょうが。だから、上で中島・永井が挙げた人たちの文章を哲学的だとする哲学者も中にはいるんじゃないかなあという気がします。
そして、絵の場合であれば「どこら辺がよくないのか?」と問われれば、専門家はある程度言語化できるでしょう(「パースが狂ってる」とか)。同様に、哲学の場合でも「どこら辺が哲学的でないのか?」(私の言い換えが正しければ、「どこら辺が哲学的議論としては不十分なのか?」)と問われれば、上で中島がやっているように、ある程度は言語化できると思います。そしてそれをしない限り、傍から見たら、彼らが恣意的に「哲学的/非哲学的」と断罪しているように見えてしまうと思います。
上でも述べたように、自分は部分的には「贋酒性」を理解できるのですが、ここ贋酒性#67e20d0e5933710000339c8dで述べたような難点もあり、一歩間違えば単に自分の趣味に合わないものを「贋酒」とレッテル貼りしてしまう危険性もあるので、なかなか危うい概念だなあと思っています。 イタロー.iconうーんなるほど。一理ありますね。私は哲学が「普遍」といった言葉を使うので、その印象でついつい「哲学」はひとつの硬い地盤があるのだ(それは哲学することを通して感得できるのだ)という風に思っていました。しかしたしかに個人の嗅覚や言葉による根拠づけというものが関係しているのかもしれないですね。